2007年02月04日

はじめての海外自由旅行

 高校のときの仲のよかった友人に、筋金入りのバイク乗りがいた。

 彼女は、高校一年、十六のときに、学校をサボって合宿で中型二輪の免許をとった。そして、その年の夏には、一人で北海道へツーリングへ出かけた。

 小さい頃からかなりめちゃくちゃなことをやっていたらしいが、さすがにいきなり北海道ひとり旅なんて親が許してくれるわけもない。

 そこで、親には奥多摩にツーリングへいくと偽って、旅立った。そんなわけで重装備をしていくわけにもいかず、寝袋ひとつでの一ヶ月のツーリングとあいなった。

 服の着替えも持って行かず、途中で知り合った人にジーンズを恵んでもらったそうだ。「パチンコ屋の駐車場で寝てたら車に轢かれそうになった」なんてことをこともなげに話してくれる。

「居眠り運転して、畑に突っ込んでしまった。病院に担ぎ込まれたのはいいけど、お金がないから、そのままとんずらした」

 まあ、そんなヤツなのである。

 そんな彼女がつねづね言っていた。「卒業したら、オーストラリアをバイクで一周する」と。

 その当時、ぼくは外国という世界について考えたことはなかった。旅行がすきでも、外国にいってみようなんて、いっぺんたりとも思ったことはなかったし、いけるとも思わなかった。

 外国旅行というのは、英語がペラペラの人だけの特権だと信じきっていた。入国審査で、あれこれ英語で質問をされるわけだから、英語で答えられなければ入国が認めらるはずもないと思っていた。

 だから、彼女の計画を絵空事のように聞いていたし、はっきり言ってしまえば、「ああ、またバカなこといってんな」と思っていた。

「英語しゃべれんの? このまえも追試受けてなかったっけ?」そんなことを本気で本人にいったこともあった。

 でもヤツはたしかに大物だったかもしれない。その大胆不敵な態度と、めちゃくちゃな言動には定評があった。

「卒業したら、アイツはぜったいに日本にいないよ」

 彼女のオーストラリア計画を聞いたことのない人まで、そんなことを言っていたほどだった。

 彼女に関しては、一冊の本にしてもいいくらいにおもしろいエピソードがたくさんあるのだが、それはまたの機会にしたいと思う。

 いま、ここで言いたいのは、以前にぼくのもっていた『外国』についての認識ということだ。

 そんな冷ややかな目で彼女を見ていたのはいつのことだったのだろう。

 たかだか数年前のことだ。

 まさか、このぼくが海外へ、それもフラフラとした自由旅行で外国を訪れることになろうとは思いもしなかった。

 その変化には、特に1995年の出会いが大きかった。こまかい話は割愛するが、この年の夏に、旅先でひとりの旅人と会い、二週間ほど行動を共にする機会があったのだが、そのときに聞いた海外の話が、ぼくに自信をつけさせた。

 その旅が終わるころには、いつの間にか「海外旅行」という気張りがなくなっていた。国内旅行・海外旅行と明確に区別するのではなく、「旅行は旅行なんだな」と、自分のなかにあった垣根がとっぱらわれたようだった。

 そうして、いつの間にか、ぼくは国内旅行の延長で台湾へ行っていた。

 そう、それは事実上、国内旅行の延長であった。

 台湾という国は、環太平洋山系でいう日本のすぐしたに位置する。九州、沖縄そしてその次が台湾島だ。

 だから、好きで毎年行っている沖縄の八重山地方へいったついでに、ちょっと足を延ばして台湾にも寄ったというほうが正しいかも知れない。

 だから台湾旅行といっても、成田からひとっ飛びというわけではない。

 東京から沖縄本島の那覇へ、そして那覇から石垣島、そして石垣島から台湾へと、すべて船を乗り継いでいった。途中でのりつぎの関係で那覇で一泊したのを含めて、六泊七日かかったことになる。

 飛行機に乗れば、いやでも海外にいくというイメージが沸くのだろうが、船の場合、石垣島までは何回か利用しているルートだ。ちっとも異国へ行くという感覚はなかった。なにせ、出国審査は船の一室で行なわれるのだし、パスポートに出国スタンプを押してもらった後でも、途中寄港する宮古島と石垣島では、日本国内に上陸できてしまうのだ。

 考えてもみてほしい。ふつう飛行機で外国へいく場合は、「これよりさき航空券を持っている人以外立ち入り禁止」という区域に入ったら、あとは出国スタンプをもらって、飛行機に乗る以外に道はない。都合で引き返すこともできないわけではないのだろうけど、通常は出国スタンプをもらうと、自分はもう日本にはいないんだという気持ちになる。だって、この段階で書類上はもう日本を出国したことになるわけだから。

 それが、船の場合は、日本にいない身分のまま、ふつうにまちなかをうろつくことができてしまう。なんとも不思議な気分だ。

 石垣島の市場で、ふつうの日本人をみて、自分は彼らとは違うのだ、そんなへんな優越感のようなものを感じてしまった。もし、そのまま船に戻らないでトンズラしたら、いったいどうなるんだろう、そう考えたらなんともワクワクした気分になった。

 さらに、船はいちおうの国際航路とはいえ、かなりマイナーな手段らしく、客が極端に少ない。僕が乗ったときには日本人はぼくを含めて八人しかいなかった。台湾人二十人ちかくを含めてもたかだか三十人。

 この船は沖縄の那覇始発で、宮古島・石垣島を経由して、石垣島から先が台湾に向けての国際航路になる。

 しかし、石垣港を出港しても、船の雰囲気が急にかわるわけもなく、船内アナウンスは日本語だけで、英語はおろか台湾の公用語である中国語(北京語)によるアナウンスすらもない。「この船、本当に外国にいくのか?」という感じだった。

 唯一、国際航路らしい点といえば、免税ビールの自販機の存在だけだろう。この船には石垣港出港後のみ電源がいれられる自動販売機がある。そこではキリンのラガーと一番搾りが百二十円で買うことができる。となりでは船内特別価格の缶ジュースが百三十円で売っていて、これだけが、唯一国際航路を証明するものだった。(ように思えた) こうして、石垣島を出港して、翌日の早朝、台湾の北部の基隆に到着した。

 船に台湾のイミグレーションが乗り込んできた。入国審査である。初めての入国審査にドキドキしながら、パスポートと入国カードを差し出すと、係官は無言で受けとった。そして簡単に内容を確認すると、なにも言わずにポンとスタンプを押してくれた。あっけなく入国審査は終わった。なにも尋ねられなかった。

 ちょっと拍子抜けしながら、荷物を担いで船をおり、ターミナルのなかで税関検査。台に荷物を乗せるように手真似で言われ、そのとおりにすると、ぼくの大きなザックをポンポンと叩くようにすると、そのままなにもいわずに通してくれた。

 そしてぼくは初めて自分の手で辿り着いた異国の地、基隆のまちに足をおろした。

 いままでの心配はすべて杞憂におわり、英語はおろか口さえ開かずに、外国へ入ることができたのだ。

 こうして、ぼくの台湾自由旅行がはじまった。


2007年01月04日

英語―そして世界へ

 英語が苦手だ。得意、不得意という以前に、まったくできない。

 中学以来、もう六年以上は勉強していることになっているが、それは形ばかりであって、実際のところなにひとつ理解っていない。

 中学の最初にならうBe動詞にしても、それがおぼろながらにつかめたのは高校に入ってからだった。原形がbeで、その活用形がis, am, are などであると知ったのが高校のはじめで、is, am, are が動詞であることを理解したのはもっとあとである。

 This is a pen. これはペンです  これ=ペン。なんにも動作をしていないではないか、これをどうして動詞というのか。

 これでひっかかって以来、英語というのは理論はめちゃくちゃで、おぼえるしかない学問、というイメージが定着し、高校まで学習の進歩はまったくなかった。

 高校、そこでの英語の授業はなかなかのものだった。無断欠勤しがちな先生の授業は、教科書の長文の和訳をひたすらしゃべり続けるだけ。そしてテスト前には「愛のメモ」なるプリントが配られ、それには単語がならんでいる。その順番さえ覚えておけばテストで六十五点はとれるという仕組みになっている。

 順番さえ、というのがミソで、単語の意味も綴りもわからないでも、それだけの点がとれてしまうのである。

 そんな授業が週二時間。それが高校三年間の英語のすべてだった。

 そして今、大学。これには英語の試験なしで入学した。だから一応は大学生をやっているが、いままでにまともに英語を勉強したことはないのだ。

 ここで初めて今までのツケがまわってくることとなった。

 まわりはすべて、普通高校でそれなりに英語をやってきた人たち。それに加えて、受験のためにも一生懸命とやってきたことだろう。

 結果として、彼らにとっては当たり前のことでも、僕はなにひとつ知らない、それが現実であった。

 当然である。中学のときですら単語をおぼえようと努力したなんて経験はないし、文法なんて、最初から理解できないと思ってたから聞いちゃいなかった。だから、現在完了といわれてもなんだかわからないし、不定詞、未来型もよくわからない。三単現による動詞の活用もおぼろである。

 またなにより辞書というものをつかったことがなかった。大学の授業のとき、まわりのみんなが、ボロボロに使い込んだ辞書をめくりめくり、先生の話を聞いているのをみて、あわてて辞書を買いに走ったものである。しかし、使い慣れないせいで、ひとつの語をひくのに五分もかかり、そこでもみんなとの差がひらけていった。

 で、この話を学校ですると、みんな信じられないという顔をする。大学まできていながら、一度も辞書を使ったことのないやつなんて信じられない、というのだ。しかし、現にこうやって存在し、そして苦労しているのである。

 以上、僕の英語歴をざっと述べたが、そんなわけだから、自分は英語ができるとは夢にも思っていない。実力とすれば中学一年くらいあればいいほうだろう。

 あまりいいたくはないが、大学の試験のときに高校一年の妹に文法の基礎を教えてもらっていたのが実情である。まあ、妹はあきれていたが。

 日本人なんだから日本語がわかれば日本の社会は生きていける、そんな開き直りから、英語のことはあきらめかけていた。

 海外旅行のときとか英語ができないと不便ではないか―そう考えたことは一度ならずもあったが、結局は、「外国へ行かなければ英語は必要ない」、が結論だった。

 だから、旅行は好きでも、外国をその対象として考えたことはなかった。まあ、根っからの貧乏旅行ばかりだったということもあって、外国=金がかかる、という図式から、金銭的にも海外へ行けるなどとは思ってもいなかった。

 ところが、西表島で出会った人たちの話を聞くうちに、次第に考えがかわってきた。なんだか、自分でも、そこに行けそうな気がしてきたのだ。

 ひとりの自由旅行で海外をまわるような人というと、当然英語がバリバリの人だと思ってしまう。しかし実際はそうとは限らないという現実を知ったのが大きかった。

 出会った人の大半は、それなりに人生経験もゆたかな人たちばかりだったから、今はそれなりに英語を扱えるようだったが、それとて旅先の必要から必然とおぼえたということだった。つまり最初はなんにもわからずに飛び出したのだ。中学以来英語がわからず、高校でもいつも赤点ぎりぎりだったなんて人の多いこと。日本でしっかり英語をマスターしてから出かけたなんて人はついぞやお目にかかれなかった。

 最初はそれなりに苦労はあるようだが、それとてたいしたものではなく、どうにかなってしまうものらしい。

 そんな話をいくつもの具体例をまじえて聴いていると、次第に重いプレッシャーとしてのしかかっていた「英語」が、軽く思えるようになってきた。

 それに加えて、格安航空券と海外での物価の実態。また外国ならではの興味ぶかい体験。それらを聴くうちに、いつしか、自分のなかに描いていた海外旅行像がことごとく崩されて、それを毛嫌いする理由がなにもないことに気づいた。

 外国に出るのに必要なのは、英語でもお金でもなく、度胸である、誰かがそういっていたのを思い出す。

 言葉、そして金銭。それらに拘泥する必要がないとわかったいま、僕にも世界というおおきなフィールドがひらけてきた。

 どうも最近、旅行ということに新鮮味が欠ける気がしていた。キャンプなどにしても勝手を知ってしまい、以前にあったような不安感のようなものがなくなり、自由になった反面、大きく感動することも少なくなった。

 しかし、いま世界を前にして、初心に返ったような気がしている。端的にいってしまえば、こわい。未知のものに向かっていくことに大きな不安を感じる。でもいままでにない、おおきなやる気で満ちている。これこそ、旅をはじめた当初に抱いた気持ちだと思い出した。

 やはり旅にはスリルが必要なのだ。実体の見えない未知の世界に向かうという感覚がなにより楽しい。

 今の気持ちをどう表現したらよいだろうか。

 真っ暗な洞窟におそるおそる足を踏みいれる。そこ知れぬ深みにビクビクしながらも先へ進む。しかし、その一番奥に到達してしまうと、その魅力は半減してしまう。しかしそんなときに新たな枝洞をみつけ、それこそ無限に近い広がりがあることに気づく。まさに新しい世界がひらけた。

 と、いったらわかってもらえるだろうか。

 世界へ。そう、文字どおり新しい世界へ旅立つ。
posted by あきばけん at 22:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | テントを担いでひとり旅
2007年01月02日

旅人たち

 ひとり旅をしているひとというのは、考える人ばかりだ。それはいままでに会ったひとに共通している。そりゃ意識的に主体性を持って行動しているのだから当然かもしれない。

 パック旅行のように与えられたプランについていくのではなく、自分で考え、情報収集し、行動するのだから、少なくとも無気力であったり、消極的であるはずがない。

 みな考え深い人であると同時に、何かに対して積極的な探求心を持ち、「自分」というものを持っている。それにパワーにあふれている。人間らしい人間。ロボット的な人たちが多い今だからこそ、こんな言い方になってしまうのかもしれない。

 繰り返しになるかもしれないけど、みんな何かしらの疑問を抱いていた。その答えに到達するために旅をしているのでないかとすら思ってしまう。Tさんなんかはまさにそれだ。自分はどこから来て、どこへ向かうのか。それを求めている。それが彼の「仕事」だ。イリオモテで一年訓練をして、世界へ旅立つ。そのために過去を精算して、社会的自分を死んだものにしてきた。彼のその行動をすごいとは思うが、特別なこととは思わない。自然な、ありのままの人間なのだと思う。

 自由に生きているMさんなんかをみて思うのだが、社会に適応できてしまう人というのは、その代償になにか大切なものを見失ってしまっているのではないかという気がする。いいかえれば社会に何の疑問も感じない(もしくは感じても自分をそれに合わせられてしまう)人は、自然な自分を押し殺してしまっている、自分が生きるのではなく、社会を生かすために命を持つ人になってしまっているのではないか。

 そんなことをいうには、もっと社会を知らなくてはいけないのだろうが、直感的に人について考えるときにそう感じる。

 「普通」の人たちは、こうした旅人を異常扱いしたがるかもしれないが、本当は自分たちが不自然であることに気付いているのかもしれない。自分の心の欲するところを行なうだけの勇気がなくて、でもそうした自分を認めたくないゆえに自分を正当化しているのかもしれない。彼らにとって社会、常識というのは果てしない高さのカベなのだろう。しかし、そのカベの限界をみきわめた人、それが、今、ここにいる人たちなのかもしれない。

(旅の私日記 一九九五年八月二十一日より抜粋)
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2006年12月09日

はじめてのヒッチハイク

 西表島で、はじめてヒッチハイクというものを体験した。

 旅の形態としてのヒッチハイクを知らないでもなかったが、どうも時代錯誤なかんじがして、まさか自分がヒッチハイクを経験することになるとは思ってもみなかった。

 西表島についた初日、炎天下のアスファルトをトボトボと歩いていると、一台の車がとまってくれた。大きな荷物をかついだ僕をみて、向こうの方から乗っていかないかと声をかけてくれたのだ。

 これがヒッチハイクと関わるきっかけとなった。

「ここだったら、手をあげればたいていの車がとまってくれるよ。無視していっちゃうほうが少ないね」

 車のドライバーは、そう教えてくれた。

 これが勇気につながった。お金がなかったことをいいわけに、以後、積極的にヒッチハイクを試みるようになった。

 たしかに西表島はヒッチハイクの成功率は高かった。例の左手の親指を立てるポーズをして断られた(無視された)のは、二台しかなかった。

 もっとも自分からアプローチせずとも、車のほうから声をかけてくれるほうが多かったので、二台というのは多いとも少ないとも言い兼ねるのだが。

 西表島で見ず知らずの人に車に乗せてもらったのは通算十回。そのうちこちらから手をあげて乗せてもらったのは二回。ダメだったのが二回だから確率は五割。それほど高い結果ではないが、その後の八台はすべてむこうの好意で乗せてくれたわけだから、やはり西表島はヒッチハイク天国といっても間違いはないと思う。

 道を歩いていると、わざわざとまって「乗っていくか」といってくれるのだから驚きだ。都会では考えられない。

 そんな一台に大型のダンプカーがあった。見晴らしのよい運転台から、今までにない視点でのドライブを楽しんだ。

「こいつを経験しちまうと、いまさら普通の車は乗れねぇよ」

 若い運転手のあんちゃんが、そういうのはもっともだと感じた。

 西表島でヒッチハイクがうまくいくのは、やはりなにより人がスレていないこと、そして旅行者が多く、マナーも良いこと、暑い日中に歩いて集落から集落を移動しようとするひとがいないこと、などが関係あるのだろう。

 広い西表島ではあるが、こうして陸路の移動にはお金を一銭も使わなかった。

 定期バスの本数が少ないこともあって、ヒッチハイクは島内の有効な移動手段である。 ただひとつ難点は、人との接触という点。相手の好意で乗せてもらうわけだから、ある程度相手への印象をよくしなければいけないし、なんとか話をして場をもたせなければいけない。

 黙って乗ってきて、終始無言というのでは相手にたいして失礼だし、いらぬ誤解を与えてしまう。

 旅の恥はかきすて、なんてことばはあっても、向こうはこっちを旅行者のひとりとみているのである。僕ひとりのせいで旅人すべての印象が悪くなったのでは申しわけない。 そんな気負いから、車内ではとにかく明るくおしゃべりな役を演じてしまう。もともと話好きなひとにはなんてことはないのだろうが、これが僕にはつらい。

 もちろん地元の人からの貴重な情報とか、おもしろい話などもあるのだが、それでもやはり気が重いものである。

 その点、トラックの荷台に乗せてもらうというのは快適だった。なににも気をつかわず、流れる景色を眺めていられる。風が頬をきるのも気持ちがいい。本来ならこれは違法である。のんびりした田舎ならではの経験だろう。

 西表島でのヒッチハイクの成功に気をよくして、石垣島でもヒッチハイクを試みた。 しかしさすがは一応の地方都市である。車の数は多いのだが、ちっともとまってくれない。

 親指を立てたまま二十台から三十台はやり過ごしただろうか。時間にして四十分。やっと一台のパジェロがとまってくれた。

 このパジェロを運転していたおじさんが親切なひとで、「乗せてくれた」のではなく、「送ってくれた」のである。

 このときは石垣市街からおよそ二十五キロはなれたキャンプ場に行きたかった。方面こそ同じであっても、そのおじさんの目的地はもっと近いところだったようなのに、「どうせだから」といってわざわざキャンプ場の中まで送ってくれた。

 炎天下で四十分間立ち続けて、「やっぱ石垣の人は冷たい」と勝手に思いはじめていたが、このおじさんに拾ってもらって、「石垣も捨てたもんじゃない」とイメージががらりと変わってしまった。現金なものである。

 キャンプ場を去るときもヒッチハイクで市街に戻り、やっぱり沖縄の人はいい人だという結論を抱いて、石垣島をあとにしたのであった。
posted by あきばけん at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 1995 西表島にて
2006年12月08日

ひとり旅する女の人の気持ち

 ひとりで旅をする女の人、いったいどんな気持ちでそうしているのだろうか。

 今まで、テントとシュラフを持参の旅というのは男の専売特許と思っていた。

 旅の感覚をわずかながら理解してくれる女友達に旅の話をすると、「いいよね。男の特権だよね。女だとそうはいかないから」と言われたものだ。

 ところが西表島へ行ってからは女性のソロキャンパーが意外にも多いのに驚いてしまった。僕が直接あった人は限られているけど、人々の話の中には実に多くの女性ソロキャンパーが登場してきた。彼女たちのパワーにはただただ感嘆するばかりである。 たとえば、ぼくがテントを張っていた草陰は、かつての伝説の「女子高生ソロキャンパー」が開拓した場所だったという。ちかくに定住している長期滞在キャンパーから聞いた。

 なんでもその女子高生ソロキャンパーというのは、高校の卒業旅行として一人でキャンプをしに西表島にきたのはいいけれど、そこがすっかり気にいってしまい、大学が始まっても帰ろうとせずに居つづけた。しまいには両親が迎えにきて連れ戻されたが、数か月後にはバイクを伴って舞い戻ってきたという。「なんでこんな子がキャンプなんかするんだろう」、そんな感じのおとなしい子だったという。

 ぼくが知り合った中で一番パワーを感じたのは、一緒に二泊三日かけてジャングルを縦走したMさんだ。

 大の男でも躊躇を示す、「毒蛇ハブと吸血ヒルのうようよいる道なき道」の縦走をしたくてしたくてうずうずしていたというひとで、賑やかなキャンプ場を避けて、あえて辺鄙な場所を選んでテントをはるような、そんな芯の強さを感じさせる人だった。旅の経験も豊富で、「よくもまあ、そんなことを…」と思うようなことを、平気でポンポンと語ってくれる。

 今年の五月に九州の屋久島でお互い旅人の姿で再会したが、彼女はその足で沖縄へ渡り、台湾、香港、ネパール、インド、パキスタン、中国へと旅して、そしていまはどこにいるのかわからない。まあ、とにかくすごい人である。

 そういった女性がひとりで旅(キャンプ・野宿)をするというのは、どんな感覚なのだろうか。ふつうのひとなら(あまりこんな表現したくないんだけどね。一般の人の意)、そうやすやすとそんなことはできないだろう。

 それは男だっておなじだ。便利で安全な街で生活している人に、急に山奥で一人で野宿しろといったら、怖いとまではいわないにしても、躊躇するにちがいない。

 それに加えて女性の場合、金銭などを持ってなくとも身ひとつあるだけで犯罪に遭遇する要因となる。そこが男と決定的に異なる。いくら大胆に行動しているようひとでも、実はそれなりに神経をつかっているところがあるようだ。

 身の危険を感じながらも旅を続ける女性の気持ち。いったいどんなものなのだろうか。男である自分にはよくわからない。



 ……などと思っていたのは、あの出来事の起こる前までである。今回の旅で、そんな女の人の気持ちが嫌でもわかってしまうような事件に遭遇した。

 その事件とは……

 そのまえに、まずTさんとの出会いから書いていかねばならない。

 僕は西表島に着き、南風見田の浜でひとりテントを張って、そこでの生活が始まった。 その浜の数少ない公共施設である水場(といってもただの沢だけど)で体を洗っているときに、ひとりの中年の男の人に声をかけられた。ひきしまった体にのび放題の髭と髪。それに鋭い目つき。「コイツただものじゃないな」と一目でわかる風袋だった。

 そのなみなみならぬ雰囲気に一瞬たじろいだが、話してみるとやっぱりただものではなかった。なんでもこの浜でこれから一年暮らすというのだ。そのための下見にきたという。その情報収集の一環として、ここで生活しているキャンパー(僕のことだ)に声をかけてきたのだ。

 すこし話をした後、彼は「一週間後に荷物をもってくる」と言い残し、島の反対側にあるユースホステルに帰っていった。

 きっかけはこれだけだったが、彼が本格的にこちらへうつり住んできたときから、お隣さんということもあって一緒に食事などをするようになった。正確にいえば僕が一方的に御馳走になっていたという方が正しい。僕が金銭的に貧しい生活をしていると知ると、自分の方に大きく負担がかかるのを承知に上で、食事を一緒にしようといってくれたのだ。

 彼、Tさんというのだが齢は四十五歳。二十数年間働いた仕事を辞して西表にきた。そして一年ここで自分を鍛えてから、来年から三年半かけての世界一周旅行に旅立つといっていた。

 旅人の多くがそうであるように、彼もまた哲学的なことを深く考えていて、「自分の意志とは無関係に世に出でた自分は、これからどこへ向かうのか」、その答えを得るために西表へ来、そして世界へ出るという。それが自分の本来の仕事であって、それを果たすために世俗の地位を捨てて、また親族や過去も精算してきたといっていた。

 Tさんが僕のとなりにテントを張ってから一週間ほどたったある日、Tさんの友人のひとりがはるばる東京からたずねてきた。

 世界旅行に同行することになっているひとで、五人だけいるという親友のひとりだそうだ。Tさんのことが心配で見にきたというのが本当のところのようだ。しばらくこの浜にとどまるという。

 Sさんといい、この人も旅行にとりつかれたひとで、今は失業中。これから世界旅行のための資金集めに職を探さなければいけないといっていた。ワイルドなTさんとは対称的に都会的な人で、キャンプ生活も初めてにちかく、しきりに冷たいコーラが飲みたい、アイスが食べたいといっていた。

 Sさんを含めて、三人の生活がしばらく続いた。どこか遠出をするわけでもなく、洗濯や炊事などをしてあとはボーッとときをすごすだけなので、実質的には寝るとき以外はずっといっしょだった。

 そんなある夜、夕食のあと、いつものように銘々で星空を眺めていた。夕食の準備のときからやけに静かだったSさんは早いピッチで地酒の久米仙を飲んでいた。そして突然はなしはじめた。もともとゆっくりと丁寧な話し方をする人だが、そのときはやや語調が荒かった。そのいっていることといえば……

 はやい話、僕に対する非難だった。僕が経済的な意味でTさんによりかかって甘えている。そうして僕が完全に自立心をなくしている。それはよくない。

 詰問調とまではいかないが、普段は静かな人だけに、言葉のなかに激しさを感じた。 完全に自立心をなくしている  そこまで言われるのは心外にしても、たしかにその通りだったかもしれない。

 旅先という開放的な気分から、すこし調子に乗っていたかもしれない。人の好意を受けることになれていなくて、どこまでというラインをまったく意識していなかった。

 Tさんは気にするなといってくれていたが、でもそれこそちゃんと考えなくてはいけないことだ。Sさんにはきついことをいわれたけど、大切なことをいってくれたんだ、と思った。

 ところが、Sさんの話が次第に奇妙なものになっていった。

 そのとき同じ浜でテントを張っていた別のキャンパーたちのことを持ちだして、「彼らが君たちふたりのことを不審に思っている」、というのだ。君たちふたりというのは僕とTさんのことだ。さらにこんなことも言った。「ふたりが恋人同士というなら別にいいんだよ。でもそうじゃないんでしょ、だったら不自然だよ」

 比喩なんだろうが、いまひとつ意味がくみ取れなかった。

 このあたりになると、僕を飛び越して完全にTさんとSさんのふたりのはなしになっていた。

 最初は僕のことからはじまったのだが、なんだか焦点がボケてきた。いったいSさんはなにを言いたいのだろう。

 そうこうしているうちに二人は決裂したらしく、Sさんはテントに、Tさんは闇の中どこかへ行ってしまった。

 話のなりゆきはわかならないが、少なくとも僕が二人のケンカの元凶だ。いったいどうしたらいいんだろう。ひとり取り残されて、なかばパニック状態であれこれ考えていた。

 一時間ほどたってからか、Tさんが戻ってきた。

「研クン、向こうで話そう」

 テントから離れた波打ち際でふたり腰を下ろした。

「研クン、ごめんな。こんなことになっちゃって。彼、躁鬱が激しくて、今日は夕方くらいからずっと変だったんだ」

 夕方といえば、僕は二時間程Tさんと食料の買い出しに出かけていて、Sさんひとりが残されていた。

「聞いててわかったと思うけど、さっき彼、へんなこといってただろう」

 Tさんがなにをいいたいのかわからず、僕は黙っている。

「研クン、ホモセクシャルって聞いたことある?」

「君にとってはショックかもしれないけど、実は僕もセイジ(Sさんのこと)も、ホモなんだ」

………これは決して冗談ではない。実際にあったはなしである。

 ホモセクシャル、はなしに聞くことはあっても実際に目の前にしたのははじめてだった。どう考えても自分とは関係するとは思えなかった世界が、こうして目の前にあるとは……

「えっ、ウソでしょ!?」 思わずそう叫びそうになった。

 Tさんとはもう二週間ちかくいっしょにいる。Sさんとも六日ほど。まったく気づかなかった。どちらも四十歳前後で独り身というのが気にならないでもなかったが、旅好きゆえにひとりなのかと思っていた。

 はなしをきいていくと、Sさんが僕を責めたことは、「自立心をなくしている云々」より、じつは単に『嫉妬』、だったらしいのだ。

 TさんとSさんは元恋人という間柄で、今はただの親友として付き合っているのだが、Sさんのほうにはまだその気があるらしい。

 だからSさんからすれば、愛しい人を心配して、はるばる東京からきたのに、その当人(Tさん)はちっとも寂しがっておらず、恋人ではないにしても若い男(僕のことだ)と仲よくやってる。しかも夕方から夜にかけて、その気になる二人が、二人きりで出かけてなかなか帰ってこなかった。

 ちょっとややこしいが普通の男女の関係で考えてみると分かりやすい。つまりSさんはやきもちをやいて僕に意地悪をしたのだ。

 これについてはなんとコメントしていいものか悩むが、まあ世の中いろいろなひとがいるもんだねぇ、くらいしか言えない。

 目の前に起きたことが僕にとってはあまりに突拍子もないことで、ショックも大きくいまだ現実のこととしてとらえられない。

 波打ち際で、Tさんのそんな告白(決して愛の告白じゃないよ)を聞いてからも、ぼくはそれまでと同じようにいっしょの生活を続けた。

 今までの二週間、毎晩のようにTさんと話していたが、そのなかから彼の親切が決して下心のあるものではないことを確信できたし、なにより彼は人間として僕と付き合っているといってくれていた。それは信用できるものだと思えた。だからこそ僕が西表を去る日まで今まで通りに過ごした。Sさんとはすこしぎこちなかったけど。

 長かったが、ここでやっと言いたかった本題にはいる。

 ひとり旅をする女の人の気持ちについてである。身ひとつあるだけでいつでも襲われる危険を感じながら旅をするというのはどんな心持ちなのだろうか、という話だった。 男の自分にはわからない、そう思っていたのだが、そのその日のできごとで、それが感覚的に分かってしまった。

 男でもホモに襲われることがあるのだ。Tさんの話では、その世界の人の半分は先天的なもので、もう半分はいわばレイプによってその道にひきづりこまれてしまった人なのだそうだ。

 そんなことをいわれるとどうも身構えてしまう。場面は先ほどの「ホモである」という告白のときに戻る。その告白をされたとき、まわりは闇、人もいない。最寄りの民家は四キロ先。ロマンチックな星空と、静かに打ち寄せる波音。いかにもその気にさせるシチュエーションである。不幸にも条件がととのいすぎていた。

 Tさんが口を開いた。

「ホモセクシャルなんて、君には感覚的に理解できない世界かもしれない……」

 ここで余韻を残して再び静寂。

 この後にどんな言葉が続くのか、この瞬間が一番怖かった。

「だから、オレがその世界を教えてあげよう」

 なんていわて襲われたらどうしよう!? いくら四十五歳とはいえ、筋肉質で向こうのほうが力がある。彼にかかったら僕なんかとても太刀打ちできない。

 まあ、実際はなにもなかったのだが、このときは半ば諦めたような気持ちがおおきかった。それでもポケットにあったマグライトを握り締めていつでも、それで殴れるように身を堅くしていた。この時の立場はまるきり女の人と同じだったと思う。身ひとつで襲われる危険、それに体力的な差。

 言葉では言い表わせないが、こんな恐ろしい思いと背中合わせで旅している女性っていったい……

 もし自分が女だったら絶対にそんなことはできないだろう。

 女性ソロキャンパーに対しては、ただ、めずらしいね、という以上に、心からの尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

 旅とはすべてが暫定的な非日常の世界だけに、まったく予期ができない。それが不安でもあるし楽しみでもある。

 旅だから知れたこと、学べたこと。

 このできごとで得たもの。それは完全ではないにしろ女の人の気持ちが感覚的に理解できたこと。

 そして同性愛については今のところはノーコメント。まだ頭の中の整理がつかない。

 くれぐれも言っておくけど、Tさんとの間になにかあったわけじゃないからね。あくまでも彼とは人間としての付き合い。あまりしつこくいうとよけいに怪しまれるから、いわないけど、本当に、本当になんにもなかったんだからね。

 あー、しばらく男性不信が続きそう。
posted by あきばけん at 07:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | 1995 西表島にて
2006年12月05日

台湾から来た箸

 沖縄西表島から持ち帰った数少ないもののひとつに台湾製の竹箸がある。台湾製といっては正確ではないかもしれない。台湾産の素材をつかって西表島で作られた箸といったらよいだろうか。

 などともったいぶったところで、実はなんてことはない。ただ西表島の浜に流れついた流木を削って箸を自作したというだけの話だ。

 テントを張っていた南風見田の浜は延々数キロつづく天然の海岸だった。沖合数百メートルのところに、切れ目なくある環礁のおかげで驚くほど波が穏やかだ。ところが台風のときはそれが一変する。そのときには海からさまざまなものが打ち上げられる。台風の威力というのはすさまじいもので、時には大岩さえも運んでくる。

 それら漂着物は浜の奥に打ち上げられると、次の台風まではそのまま在りつづける。 そんなわけで浜では実にさまざまなものを拾うことができる。そんな漂着物のひとつである竹を削って箸をつくったわけだ。

 しかしその竹がなぜ台湾から来たとわかるのか? 答えは単純。中国語のラベルのついたビンとならんで落ちていたから。それ以上の根拠はない。でもとにかくそれは台湾産の竹なのだ。だれがなんと言おうと。

 島のキャンプで実用品として使っていた箸だが、長さといい持ちやすさといい、なかなかうまくできたので、そのまま持って帰ってきた。いまでも家で菜箸として使っている。

 今でも、その箸を手にするたびに西表島での食事の場面が思い出される。

 それと自分で勝手に思っているだけだが、その箸が外国から数百キロの旅をしてきたものだと思うと、ただの竹なのになにか特別なもののような気がしてくる。そして国境の島というエキゾチックな気分にも浸れるのだ。

 やはり旅の記念にするなら、その旅での思いが詰まっているものが一番である。自分の気持ちを投影できるもの  そうであってこそ、それをお土産(=旅の記念)と呼べる。

 ちなみにぼくは旅先で土産物というものを買ったことがない。
posted by あきばけん at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 1995 西表島にて
2006年12月04日

旅のカメラ考

 旅にはカメラがつきものである。

 なぜか旅行というと、ふだんは写真なんかにまったく興味のない人でも、カメラに手がのびる。

 だれでも、目で見て感動したものを人にも伝えたいと思うものだ。その点、写真の記録は旅を客観的に伝えるには最適なものといえるだろう。

 そうした有用性を認めつつも、僕はどうもカメラにはなじめない。以前は当たり前のごとくカメラを持って旅行に出たのだが、いつしかそれをやめてしまった。

 写真を撮るとはどういうことなのか、それがぼくには感覚的につかめないのだ。

 シャッターを押せばファインダーで見た像が記録される、それはわかるのだが、だからなんなの? という気がしてしまう。なんとなくシャッターを押して、できた写真をみて、ああ写ってる、とただそれだけなのだ。

 それでいて、フィルム代、現像・プリント代、それにカメラを持ちあるくときの盗難やショックへの気配りなどマイナス面だけはおおいに気になってしまう。

 なにより、写真なんか残さなくても自分の目で見るだけでいいなとも思う。旅の記念に、というつもりであっても、客観的事実をそっくりそのまま記録するだけの写真は、それ以上のものはなにも含められない。その事実をみて、どう感じたのか、肝心の部分がすっぽり抜けてしまっている。

 何百分の一の確率でしか見えないようなよっぽどすごい光景に出食わしたというなら話はべつだけど、そうではない単なる景色なら、見たこと感じたことを自分の言葉で表現した方がよっぽど印象深い記録になるのではないだろうか。

 また写真でもうひとつ気になっているのは、ある一場面をカメラにおさめると、それだけで満足してしまうきらいがあるということだ。

 写真を通していつでもその場面を見ることができるのだから、と思うのからだろうか。どうも写真を撮ったことで、その場面にひと区切りをつけてしまう。旅先でたくさんのサンプルを採集して、おうちに帰ってからゆっくり堪能しましょう、とでもいっているかのように。

 しかし誰もが認めるように、実像と写真とではまったく比べものにならない。

 だから、なにより優先するのは、その場で肉眼で見ることなのだ。でもカメラはそれを忘れさせてしまう。

 学術記録とかいうの無機質なものではないのなら、やはりそこで感じたものが最優先されたほうがいい。だから自分の中の印象が第一であって、それを伝える言葉があって、その補助として写真がある、そんな形こそが本当の「旅の写真」なのではないか。

 僕自身、カメラ好きというわけではないからなのかもしれないが、カメラを持っていると気負いのようなものを感じて息苦しくおもうことがある。

 心のなかに、いつも写真をとらなくちゃ、という気があって、同じ景色を見るのでもついカメラアングルでとらえてしまう。自分の目で見るより先にフィルムに焼きつけることを優先するかのようになってしまうのだ。

 沖縄へ行く船の中でこんな場面があった。長い船旅のおわりちかく、沖縄の沿岸を航行中に、突然船内アナウンスが入った。

「ただいま本船右舷前方にイルカの群れがいる模様です」

 みんなあわててデッキに飛び出した。

 しかしいつもカメラのことが頭にある人たちは、カメラ、カメラと探し回って、デッキに出るのが遅れた。彼らが来たときには、もうイルカの姿はなかった。

 自由の旅であっても、モノを持つことで不自由になることがある。それを強く感じた。 普段は見ることのできない野生のイルカの姿を、フィルムに焼きつけることはおろか、己の目で見ることすらできなかった人たち。悔しそうな表情が印象的だった。

 ときとして旅の一場面で、カメラを持っていれば……と悔やまれることもある。でも、それを持っていることで生じる煩わしさとを天秤にかけると、やはり今の僕には余分なものに思える。

 しかし、最後に、今回の旅で出会った人から写真を送ってもらったのはうれしかったことを付け加えておく。

 旅先での出会いを、旅先だけで終わらせないための、道具としての写真の価値は絶大だと思う。
posted by あきばけん at 01:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 1995 西表島にて
2006年12月03日

優雅なる船旅

 我が愛する西表島への交通はいささか不便である。東京からの直行便がないのはもちろんのこと、普通は最低三回は乗り継ぎをしなければいけない。

 大きくわけて空路と海路があるが、そのどちらも東京から那覇、そして那覇から石垣、そして西表島という経路を踏む。

 去年か一昨年だかトランスオーシャン航空から羽田―石垣直行便が開通したが、まだ本数は少なく、時間的な問題で一日で西表に入るのは難しいようだ。

 一般的には飛行機で那覇経由で石垣に入り、そこから船で西表へというルートをとる。これだと一日で余裕を持って西表島入りできる。しかしべらぼうに金がかかる。たしか十日間有効の往復割引きを使っても往復約九万円はしたはずだ。下手な海外への航空券より高い。

 そこで登場するのが海路である。これも途中経由地は飛行機とおなじなのだが、西表まで五万円ちょっとで済む。しかも学生の特権学割を使えば四万円たらずで往復できてしまう。なんと飛行機の半額以下となってしまうのだ。

 しかし、うまい話には罠があるというのは世の常である。この船旅の場合、安い運賃に目を奪われて、見落としがちなのが「食費」だ。

 船旅は安いかわりに時間がかかる。東京から那覇までが五十四時間、那覇―石垣が十二時間、そして石垣―西表が一時間程。途中乗り継ぎがうまくいったとしても、確実に丸々三泊四日はかかる。

 つまり実際の船旅では、通常運賃に加えてこの四日分の食費が加算されさたのが本当の料金なのだ。

 まさかこの食費だけで三万も四万も使うわけではないから、飛行機に比べて安いことには違いないのだが、船内の食堂の料金の高さには、少々頭に来る。

 メニューによるが一食七五〇円から一二〇〇円くらい。それに缶ジュースが一三〇円でビールはレギュラー缶で三〇〇円。あとなぜか古本と称してぼろぼろのマンガ週刊誌などが一〇〇円で売られていたりする。船上という独占市場なだけに強気である。

 今回の旅行では、お金は使いたくなかったので食料はすべて持ち込みとした。しかし夏場なので日持ちするものでなければならない。その結果選んだのはパンと練乳、あとはチーズ。

 途中、那覇で船を降りる機会があったが、そこでもなにも買わずに、東京から持ってきたロールパン一〇個で三泊四日を持たせた。

 船の中というのは広いようで狭いものである。出向直後などはデッキから景色を眺めたりして、それなりに時間を潰せるのだが、大海原にでてしまえば、あとはひたすら海ばかり。綺麗な海を一日中のんびり眺めているというのも贅沢なときの過ごし方かも知れないが、実際にやってみると、そう長い時間はもたない。

 そこで船の中をうろちょろするわけだが、これもたいして時間をくわずに終わってしまう。

 結局することといえばデッキの日陰で昼寝をする、に落ち着くのである。

 しかし、これも度をこすと夜になって寝られなくなり、昼間以上に退屈な時間を過ごすこととあいなる。

 しかし、そんな船内の生活も、気のあう人と出会うと様相は一変する。こんどは反対に船の中の時間があまりに短く感じられるのだ。

 この「時は金なり」の時代に、船で何日もかけて旅する人には、おのずと似通った部分がある。そんな初対面で一期一会に過ぎない関係でも、不思議と話は弾み、初対面だけにお互い話は尽きない。

 静かな夜のデッキで座りながら、または解放された食堂のテーブルで、お互いの旅での体験を語り合う。どこの景色が素晴らしかった、どこそこのキャンプ場は最高だった、旅先でこんな人にであった、あそこの民宿のおじさんは親切だった、などなど。

 そして気づくと船は目的地に近づき、惜しみつつわかれることになる。

 このコミュニケーションこそ、不便な船旅の醍醐味であると思う。

 キャンプで長期滞在するときもこうした語らいの機会はあるが、船では船なりの特色があって楽しい。そこで出会う人たちは旅の形態にも幅があり、島のキャンプ地では決して知り合わないようなタイプの人も多い。たとえばダイバーなどがその代表だろう。 たまには蚊帳の外からの意見を聞くのも楽しいものである。

 優雅なる船旅  その条件は、ひとえに人と触れ合うきっかけを、どうつかむかにかかっている。
posted by あきばけん at 18:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 1995 西表島にて
2006年12月01日

西表島への思い

 沖縄の西表島に初めて足を運んだのは中学三年、十四歳の夏だった。

 西表島を含む八重山諸島の中心、石垣島を拠点にしての日帰りの観光ツアーでの訪問だった。それでもそのときそこで感じたものは一種衝撃的なものだった。

 それは『常識』というものに疑問を感じた第一歩でもあった。

 横浜という、なにもかもが人のために造られた街に育っただけに、人の手によるものがあまりに少ない西表島の存在自体が僕にとっては驚きだった。

 西表島は、今世紀最大の発見といわれるイリオモテヤマネコの存在で知られているが、そんな生きた化石が人知れず生き続けたことからもうかがい知れるように、そこはまさに自然の宝庫で、天然の原生林が島の九十パーセントをおおっているという類い希な島だ。

 西表島には沖縄県下最大の落差を誇る滝がある。現地語でヒナイサーラと呼ばれているが、通常の観光ではそれを見ることができない。(はるか遠くに遠望することはできるが)

 今でこそボートが出ているらしいが、数年前までは自分の足で二時間ほど亜熱帯のジャングルを歩かなければ滝までいかれなかった。しかも海の引き潮どきをねらって広い湾を横断していかなければならない。帰りが遅れたりすると潮が満ちて足の届かなくなった海を五百メートルほど泳がなくてはならなくなる。

 つまり、観光地化がされていないのだ。ジャングルの中のルートにしたって道標があるわけではなく、ただ木に赤いテープが貼ってあるだけだ。

 仮にも沖縄県下最大の滝である。それをこんなふうにほったらかしにしておく感覚が理解できなかった。

 たとえば日光の華厳の滝。滝の真正面にそれは立派な展望台を設けている。もちろんそこでは金を取る。これが当たり前と思っていた。

 また滝というと通常は眺めておしまいである。所定の場所から滝を眺める。それはせいぜい滝壺の少し手前。危ないからこれ以上入ってはいけませんという柵の手前から見るだけ。

 しかし西表では観光地化された滝でさえ、柵なんてものはない。危ないから川に入るな、なんて看板が立っているわけでもない。

 天然の滝がポンとその場にあり、それを眺めて楽しもうが、落ちる水に打たれようが、はるか下の滝壺に飛び込もうが、まったく自由なのである。

 すべては個人に委ねられていて、ひとりひとりが判断し、その責任のもとに行動できるのだ。

 東京の公園では、池には柵があって立ち入り禁止になっている。子供が登って危ないからといって柿の木の枝は切り落とされた。ジャングルジムから子供が落ちて怪我をすれば、安全対策を怠ったとして行政が訴えられる。行政も過保護とも思える過剰な対策に乗り出す。

 なんという大きな違いだろうか。今までの自分にとっては後者があたりまえだった。なんの疑問を感じるまでもなく、それが常識であった。

 しかし、西表島を通して気づかされた。あまりに主体性のなかった自分。与えられたものを手放しで受けるだけであった自分。また人間らしくない都会での生活に疑問すら抱かなかった自分。

 西表島にいったことで、はじめて自分で考えることを知った気がする。また常識とはなんなのか。当たり前のことってなんなのか。今まで絶対と思っていたことが、実は実体のない虚構に過ぎないのではないかと考えるようになった。

 すべては西表島からはじまった。
posted by あきばけん at 18:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 1995 西表島にて
2006年11月28日

旅の感覚

 沖縄の西表島を中心に三十三日間の旅行にいってきたわけだが、これを周りの人に説明するのに一苦労する。以下床屋での会話である。

「いやー、真っ黒に焼けてきましたね。どこへ行ってきたんですか」

「一月ほど沖縄へ……」

「そうですか、沖縄ですか。一月もいいですね」

 この段階で、そう聞いてきた人の頭の中には、万座ビーチホテルあたりの光景が頭に浮かんでいるのである。

 だから言ってやる。

「沖縄といっても、台湾に近い辺鄙な島でキャンプしてたんです」

「え、キャンプですか? ずっと? そりゃすごい。でも大自然のなかでのキャンプっていうのも優雅でいいですね」

 そう言った、この人の頭の中で思い描いているのは、きれいに整地されたキャンプ場で、水道を使い炊事をし、明るい照明の下でバーベキューをしているような光景である。 だから今度は、そのキャンプの実態を説明してやる。

 泊まったのはキャンプ場でもなんでもないただの砂浜。水道トイレ等の設備は一切なし。最寄りの民家は四キロ先。自販機も電話も売店もみんな四キロ以上歩かなくてはいけない。

 ここまで言えば、だいたい想像していたキャンプとはちがうんだなと理解してくれる。でもそれだけでは終わらない。

「それじゃあ、沖縄までキャンプをしにいったんですね」

 そういって旅の目的を定義付けようとするのだ。

「いや、そうじゃなくて、旅行なんです。キャンプしながら旅行してるんです。宿に泊まる代わりにキャンプしているだけで………いや、でもキャンプ自体も旅行の一貫として楽しんでるわけで……」

 と、説明するのが面倒臭くなり、途中で適当に話を切り上げてしまう。仮にすべて説明したとしても百パーセント理解してもらうのは難しいようだ。

 僕の概念としては、普段の生活に対して、そうではないもの、つまり非日常、それがすべて旅だと思っている。

 たとえ日帰りであっても、非日常的なものを経験しにいくのはすべて旅だ。だから山登りにいっても、河原へキャンプしにいっても、東海道を歩いても、すべて僕にしてみれば旅なのである。

 でも普通の人に旅行といってしまうと、いわゆる観光旅行しか思い浮かばないらしい。また彼らにとっては登山といえば登山であるし、キャンプといったらキャンプでしかないのだ。これらがすべて同じ次元であるとは思ってくれない。

 それに、旅行に対して持つ意味合いも全然ちがう。たとえば、東海道を京都から東京まで歩きました、こう言ったとする。そのとき相手の反応は、

「へえ、そう。で、そんなことやってなにが楽しいの? 電車に乗ってけばいいじゃん」 どこか違うのである。論点が噛み合わない。さらにひどいのになると、

「ふーん、お金がなかったの?」

 となる。そうじゃなくて歩きたかったんだ、そう言ってもなかなか納得してくれない。旅というより、ただの奇行としかみてくれないのだ。

 東海道を歩いたこと。それは僕自身なんのためにそうしたのか、それを言葉で表すことができない。それがもどかしくもあるのだが、でも感覚的に分かってくれてもいいんじゃないかという気がしてしまう。

 一生懸命説明しようとするのだが、最近はもう諦めかけている。

 反対に、普通の人に旅行とはなにかと聞いてみると、たいていは、「さあ、どっかに泊まりにいくことじゃないの?」と、いま流行りの他人事風の返事が返ってくる。せいぜいよくても「気分転換」という答えが多い。

 でも、僕としては旅というのはもっと大きな意味を持っている気がしてならない。さっき「旅は非日常である」なんてことを書いたけど、もしかしたら旅こそが本当の日常なのではないかと思うことすらある。

 旅が日常の延長にすぎない人にしてみれば、高い交通費払って、ふつうなら宿代払って…、と旅はまったくの浪費にすぎないかもしれない。そんな人からみれば旅する人はただのバカな奴にみえるだろうし、五百キロあるいたなんていったら狂気の沙汰といったところだろうか。

 でも、旅の意義を見いだしている人にとっては、そこから得るものはなにものにもかえがたい。

 あれこれ問題はあるだろうが、いまの自分がこうしてあるのも旅があってこそである。他人からみれば、「あいつは、日増しにおかしくなっていった」のかもしれないが、自分としては、いい方向に成長したのだと思っている。

 旅先での日常はとても密度の濃いものだ。ふだんの生活の何年分にも相当するような気がする。

 西表島では、一日中なにもしないでボーとしていることが多かった。それでも得るものは多かった。具体的になにといえるものではないのだが、ただそこにいるだけで、なにか新しいものが見えてくるようだった。普段なら決して考えないようなことでも、そこでは不思議といろいろ思い巡らす。考えるというよりは、むしろ気づくといったほうがいいだろうか。

 西表島で出会った旅の意義を見出だしている人たちは、旅のとらえ方をはじめとして、いろいろなものの考え方が根本的にふつうの人と違っていた。

 旅人たちの感覚の根底にあることを考えてみると、神経がずぶといこと、そしてなにより大きいのは、みてくれより内面を重視することにある気がする。

 あたりまえことを、あたりまえとみなさないのが、その出発点だろうか。

 普通のひとはあまり『常識』を疑おうとしない。素直に常識というものさしを信じる。 でも西表であったひとたちは、オリジナルのものさしを持っていた。

 ものごとを見て判断する基準からして違うわけだから、感覚が違うのも当然といえる。 一例を出そう。変な響きに聞こえるかもしれないが、汚いことをさほど苦に思わない。そりゃ全身泥だらけになれば、体を洗いたいとは思うが、一日一回シャワーを浴びなくては気が済まないなんてことはない。

 都会では、潔癖症だとかいって電車の吊り革につかまれない人がいるらしい。抗菌グッツというのもはやっている。

 そりゃ、体を清潔にしておくことの衛生的な意味はわかっているつもりだけど、それ以上に人体のもつ抵抗力の強さもよく知っている。

 だから水浴びをすることはあっても、石鹸で体を洗うことは、どちらかというと贅沢な部類に入ることだったようにおもう。

 それに体を石鹸で洗ったとしても、どうせ使うのは猪が水浴びしてる川の水なんだから、あんまり意味はなかったかもしれない。

 このことを引き合いに出したのは、以前に十二日かけて京都から東京まで歩いたときに、普通の人から一番よく聞かれた質問が、「風呂はどうしてたのか」だったからだ。 銭湯にありつけたのは、たしか二回ほどだったかな? そう答えると、あからさまではないまでも、驚いたような反応を示す。そして、「でも二月なら汗もあまりかかなくて良かったですね」、とくる。

 しかし実際はTシャツがびちょびちょになるくらいに汗をかき、靴の中などは十二日間ずっと蒸れっぱなしで、とんでもない状態だったのだ。

 そのことをいうと、たいていみんな黙り込んでしまう。

 きたない、そう思うのが普通の人の感覚ということなのだろう。

 話は戻るが、水浴びについて、おもしろい話がある。

 海に入ると潮でベトつく。だから海水浴なんかだったらシャワーで塩を流す。でもキャンプの最中はシャワー(水道)なんてものはないから沢を使っていた。だが、場所によってはそれすらもない。

 そんなときはどうするか。さいわいにして僕が泊まるところはどこも水があったのだが、それ以外を経験を持つ女性キャンパーから教えてもらった方法がある。

 それはペットボトルを使う。シャワーでは水を大量に使うが、その気になればペットボトルの一・五リットルでも全身を流せるんだと、教えてくれた。石鹸を使ったり、頭も洗う場合は少しきついが、ふだんの汗をかいたときくらいなら一・五リットル程度で十分だそうだ。だから暑い沖縄を歩いていても、ペットボトルを二本持っていれば食事からシャワーからすべて賄える。

 シャワー=大量の水、そんなイメージから、水道、川のないところで水浴びをするなんて発想はぼくの中にはなかった。

 僕にすれば画期的なアイデアだった。当然、このアイデアは即いただいた。

 実際、彼女はそうして気ままなキャンプを続けていた。(さすがに、というか当然というか人目は気になるらしく、どこかの影でこっそりと水浴びしていたらしいが)

 とまあ、個人差はあるにしても、旅人の感覚というのはこんな感じなのである。

 普通の人にペットボトル差し出して、シャワー替わりといっても、なかなか信じてもらえないだろう。

 旅先で出会った人と過ごすひとときは、心地よいものだった。似たような感性の持ち主だから、気を遣わなくていいし、なにより思う存分話ができる。冒頭に書いたような歯がゆい思いをせずにありのままで話せるのだ。

 書き進めるうちに『旅人』と『普通の人』を対比するという感じになってしまったが、世間一般の常識に乗っとった感覚を普通と表現してしまうのはどうかと思う。彼らが普通なら旅人たちは普通じゃない=異常ということになってしまう。

 でも直観的に、旅先であった人のほうが人間らしい気がする。本当に生きているんだなと思える。僕としてはこっちの方を普通と呼びたい。

 少なくとも僕自身は、まともな感性で、まともに生きているものと思っている。
posted by あきばけん at 18:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 1995 西表島にて
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