僕が旅の世界をはじめて知ったのは十七歳、高校二年生のときだった。
この年の夏休みに十日ほど沖縄の西表島に滞在した。そして同じ夏にテントをかついで東京から箱根の関所までを歩いた。
西表島の方はごく一般的の旅行にちかく、箱根まで歩いたのはどちらかというとキャンプの延長みたいなもの。このふたつを一夏のうちに経験したことで、旅行とキャンプの融合という、今の旅のスタイルの基盤ができた。
この西表島での体験と、徒歩旅行はそれからずっと僕の旅の目的の二本柱になってきている。
西表島で受けた印象は、衝撃的といってもいいほどに僕を揺さぶった。そこで見たものを一言でいうなら「自然」ということになるだろう。
自然といっても、緑の草木とか珊瑚の海という意味の自然だけじゃない。ものの在り方を含めた概念としての自然だ。
たとえば海水浴場。地図上では海水浴場となっている場所に行ってみると、そこはただの天然の砂浜があるだけで、僕のイメージしていた海水浴場──沖に遊泳範囲を示すブイが浮かんでいて、海の家があって監視員がいて人でごった返している──はどこにもなかった。
観光名所になっている有名な滝がある。山のなかにあるのだが、そこへ行くと何があるかというと、ただ滝がデンとあるだけ。案内板もなければ休憩所もない。ましてや滝のまわりに柵があるわけでもない。だからそこで泳ごうが滝に打たれようが自由なのだ。(もっとも危なくてそんなことをする人はいないけど)
これはほんの一例だけど、ここで言いたいのは、これまで僕があたりまえだと思っていたことのほとんどが、じつはすごく不自然なことばかりで、こうしてそれとは対称的な光景をつきつけられて、いやおうなしに、自然なものごとの在り方とはなんなのかと考えさせられた、ということだ。
人間と大自然、人間と人間、人間と時間、それらの関わり方でもっとも自然なかたちってなんだろう。
そう考えると、自分のふだんの生活とそれをとりまく環境は、不自然の極致に感じられてしかたがなかった。
町中で生活していると、どうしても時間にしばられる。生活のサイクルというと言葉あたりはいいけれど、つまりはクロック周波数に同期して生活しているわけだ。自分で考えることなしに、流れに身を任せていれば一応の生活がなりたつ。
でも、それで本当に生きているといえるのだろうか。たしかに生をつないでいるけど、それでは生きているとはいえない気がする。
ただ、それが絶対多数だろうし、そうした流れの外の生活があることを知らない人も多い。
都会にいるかぎりは、それがあたりまえだってことは、そこに原因があるのだろう。その後の僕におおきな影響を与えたのはそこの部分だ。つまり常識ってなんなの? と疑問を抱いたこと。
べつに意識していたんじゃないだろうけど、僕はそれまでは常識は絶対と考えていたのだと思う。
それがふとしたきっかけ(つまり西表島に滞在したこと)で、常識というものを外から眺めることができて、常識というのは、ひとつの枠みたいなもので、地域性、風土なんかにおおいに影響される至極あやふやなものに過ぎないと気づいた。
もちろんそれまで日本の常識は世界の非常識と言われるみたいに、常識が絶対ではないということは知識としては知っていたけど、それを身をもって理解した第一歩だった。西表島に行ったことは、僕に新しい視点を与え、視野を広げてくれた。
最初の西表島での体験は、まとめるなら「きっかけを与えてくれた」といえるだろう。
そしてその夏のもうひとつの旅、東京から箱根まで歩いたという話だけれど、この旅では「自分の持つ力」を確認することができた。
で、そもそもなんで東京から箱根まで歩くことになったかというと、べつに深い意味があったわけじゃない。
高校の社会科の宿題で、昔の街道を歩いてレポートしなさい、という課題が出されたから、ただそれだけ。
どこそこを歩きなさいという指定があったわけじゃないんだけど、家の近所に東海道があったし、それでどうせだから始点の日本橋から歩いて、区切りのいい箱根の関所まで、と思ったわけ。
中学の頃から、友達同士でキャンプなんかにはよく行っていたし、高校一年のときには自分のテントを手に入れて一人でキャンプにも行っていた。
そんなわけで、三泊四日の東海道百キロ徒歩の旅をすることになった。
実のことをいってしまえば、百キロなんて距離を歩き通せるなんて思っていなかった。以前なにかで二十キロくらい歩いたことがあって、そのちょっとした延長みたいに思っていた。どうせどこかでダウンするだろう、そのためにテントを持っている、テントさえあればどこでも泊まれるから、こころおきなく歩ける。
そんな程度の認識ではじめた徒歩旅行だけど、おもいのほか人間の体は強かった。たしかに箱根峠の上りなんかは死ぬほど辛かったけど、気づいたらいつのまにか百キロを歩き通してしまっていた。
自分ってけっこうやるじゃん、少しは自分に自信を持てた。これが最初の徒歩旅行で感じたこと。
それでどうせ東海道を百キロも歩いたんだから、いっそうのこと東海道を全部歩いてやれ、そんな気になってきた。東海道というのは江戸の日本橋と京の三条大橋の間を約五百キロで結んでいる道だ。
以来、高校時代のひとつの課題として東海道全踏破を目標に置いた。
と、まあ以上のふたつの旅がきっかけとなって、僕は旅の世界にのめり込むようになっていった。
2006年11月17日
2006年11月18日
こんな旅をしてきた
いまじゃそれほどかわったこととは思わないけど、以前は公園とか橋のしたとか町中でキャンプするだけで、すごいことだと思っていた。
アウトドアブームだとかで、キャンプを経験したことのある人は多いと思うけど、キャンプというと山とか川とかのキャンプ場でテントを張って、夜はキャンプファイヤーをして、おいしいアウトドア料理を楽しむ、ってのがふつうでしょ、きっと。
ぼくの場合、キャンプというものをはじめたのが、どちらかというと登山系からだったから、そこまでカジュアル化はしていなかったけど、それでもキャンプは大自然の中でするものというイメージを持っていた。
はじめて町中でテントをはったのが、十七歳のときの東海道をめぐる最初の旅のときだ。
東京から箱根まで歩くにはどうあがいても一日じゃムリだということはわかっていた。なにしろ江戸時代の平均的なペースでも二泊三日かかっているんだから。
最初は宿に泊まりながら歩こうとか本気で考えていたけど、たかだか学校の宿題ごときでそこまでお金をかけるのはバカバカしい。
そこでピンとひらめいた。キャンプをすればいいんじゃん、と。東京から箱根の間には、多摩川、相模川、酒匂川、早川と、おおきな河が何本かある。酒匂川なんかは上流でキャンプができるんだから、下流の方だってできないことはないはずだ。
そんないきさつで平塚市内の相模川の河原と、小田原市内の酒匂川の橋のしたでキャンプをしたのがはじまりだった。
最初はいろんな意味で怖かった。十分も歩けばすぐに市街地という場所だ。夜中にわるいヤツがこないという保証はない。警察に怒られないだろうかとかマジメに心配した。それに橋のしたというと多摩川の河原なんかはそうだけど、『定住』しているひとがけっこういる。そんなひとたちの縄張りだったらどうしようとか、あげくのはて野良犬がきたらどうするかとか、心配は妄想的に広がっていった。
でも最初の旅のときは場所の選択がよかったのか、なんの問題もなく町中キャンプを終えることができた。
そこで思ったのは、アウトドア、アウトドアと世の中は騒いでいるけど、要は野外生活なわけでしょ、ってことは全身全霊をもって二十四時間アウトドアを実践してつわもの=ホームレスは、時代をさきゆくトレンディー、といってもいいんじゃないですか?ということ。
所詮はそんなもんなんだよ。キャンプったって野営だし(中国語では露営と書くしね)、アウトドアライフは戸外生活。浮浪者だってりっぱなキャンパー。浮浪者と軒を連ねて野宿してそうおもったね、ぼくは。
最初の町中でのキャンプで気をよくしたぼくは、それから旅の手段として町中キャンプを繰り返した。こうなるとキャンプという言葉の持つイメージからはかけはなれて、Way of overnight at everywhereという感じになってくる。
こうして、ぼくの中では旅行とキャンプの境界があいまいになって、旅という形になっていった。
キャンプという行為自体を楽しむこともあるけど、基本的には安宿の延長線上にあるヤドカリハウスという発想だ。
すごく自由になった気分がした。なんの気がねもなくどこへでも出かけられるのだ。
旅行のときいちばん費用がかさむのは宿泊代だけど、それが限りなく〇円に近いのだからこんなにうれしいことはない。それに加えて宿泊場所に決めたところが景色がよく、人が来なくて、コンディションが最高ならこれ以上の豪華なホテルはない。
いま、ふつうに民宿とかに泊まったら幾らくらいするのだろう? 比較的安いといわれているユースホステルだって、素泊まりで三千円くらいはするはずだ。
一夜を明かすだけで何千円も払うなら、それで旅の日数をのばしたほうがいいし、もっと遠くへ出かける費用にあてたほうが絶対にいい。
これが僕の旅だ。贅沢するくらいなら旅という時間に長く浸っていたい。宿に泊まってフカフカの布団に横になるなんて年とってからだってできるんだし、おいしいものを食べるのなら、なにも旅という場である必要はない。
でも、べつにそういうふつうの旅行を否定しているわけじゃない。それはそれで楽しいことは知っている。
でも「若いときの苦労は買ってでもしろ」ってわけじゃないけど、骨のある旅行をすることで、自分にプラスになっていることが多いのも事実だ。今しかできない勉強の一貫としての旅もいいと思う。
この淋しい世の中でもけっこう親切が残っていることに気づいたのは旅先でだったし、社会の営みのなかからはずれてみて、はじめて社会を客観的に捉えることができた。人間のもっている潜在的な力に驚かされたし、自然への畏怖も感じた。
そうしたことを知り、感じることは、どんな遊びよりも楽しく思えた。なによりうれしいのは、みんなで集まって騒いだりする遊びのあとに感じる空虚感に対して、旅という『遊び』には明らかに手応えがあって、確実にあとに残るものがあることだ。
バイトで稼いで貯金し、残高を増やすのが楽しみという人がいるかもしれない。楽しいという表現は語弊があるかもしれないけれど、すくなくとも預金が増えるというのはうれしいことであるはずだ。
ちょうどそれと同じようなことを僕は旅に感じる。旅に出ると、ふだん気づかなかったようなものごとに出会い、新しい世界が開ける。そしてそこで得た感覚、視野、体験、苦労はみんな僕の中の貯金としてたまっていく。貯金と違うのはそれが出ていくことはないということ。たまる一方だ。それに、たまった知識を自分なりに咀嚼して『考える』ことをしていけば、それはいくらでも新たな知識として膨らんでいく。いわば利子みたいなものだ。
僕が旅に出る理由を理屈っぽく説明するとこんな感じになるのだろう。でもこんな難しいことをゴネなくても旅は楽しい。たまにある苦労とかつらい部分をなんとかプラス方向にもっていこうとすると、こんな話になるのかもしれない。
まあ、とにかく僕はそんなつもりで旅を続けてきた。そこでいろいろなことを『感じた』というのは、やはりそれまで自分のもっていた『常識』から外れた世界を体験したからであって、すなわちそれは話のネタになるようなかわった体験であると思う。
キャンプ(野宿)に関わるそんな体験のいくつかを紹介したいと思う。
ふつうの町中でキャンプをするとしたらどんな場所があるだろうか。僕は安全だと直感したところならどこだって泊まった。河原の橋の下、公園、神社、美術館の軒先、図書館の駐輪場、無人の駅、バスの待合所、駐車場、道路の脇、などなど。
静岡県の静岡市内を歩いているときのこと。阿部川の近くで日が暮れて、どこかで泊まらなくちゃいけなかったんだけど、どうにも疲れていて寝床をさがすのも億劫に思えたときがあった。なかばすてばちの気持ちで交番で尋ねてみた。「どこかテントを張れる場所がありませんか」、そうしたら、そのお巡りさんがいい人で、交番の裏にテントを張ったらいいといってくれた。「ひと晩だけど近所づきあいしようや」、そういってお巡りさんはリンゴをくれたり、とても親切にしてくれた。
同じく静岡の興津というところで、神社でテントを張らしてほしいとお願いしたとき、宮司さんが、拝殿のなかで寝なさいと言ってくれたことがあった。拝殿というとあの御神体があるところだ。ちょっとおっかなかったから辞退したけど、こんなふうにこっちはいかにも怪しい放浪者にすぎないのに、意外な親切を示されて驚くことがある。
反対にこわい思いをしたこともあった。静岡県の富士市役所のとなりの公園にテントを張ったときのこと、地元のヤンキーの襲撃にあった。
きれいなよく整備された大きな公園、これなら奥の方にテントを張れば目立たないだろう、そう考えたのがまちがいだった。
いま思えば、そこは横浜の山下公園にちかい雰囲気だった、そう書けば分かってもらえるだろうか。
昼間はともかく夜中になるとやたらとよくない輩が集まるのだ。概してそういう人たちは人目を避けて目立たない場所にいきたがる。まさにそんな場所にぼくはテントを張ってしまっていた。ふつうの人があまりこないということは、そういう連中は思う存分に好き勝手なことができるということで、いま思えばよく石を投げられただけで済んだものだと思う。
相手は高校生らしき三人組。奇声を上げながらテントの周りを自転車で走り回り、遠巻きに小石を投げはじめた。三十分ほどそうしたあと、やっと諦めて帰っていったかと思ったら、今度は遠くから大きな石がとんでくるようになった。テントを見下ろせる高台があってそこから投石しているようだ。さいわいテントは休憩所のような日よけのしたに張っていたから、直撃は免れたけど、プラスチック製屋根に石があたってすごい音を発していた。翌日テントを出てみると拳大の石が転がっていた。
で、そのあいだぼくはテントの中でなにをしていたかというと、意味はないと知りつつもナイフを握り締めて、震えていた。そうするしかなかった。
まあ、結果的にはなんの実害も受けずに終わったから良かったんだけど。
また、こんなこともあった。岐阜県の知立市役所の軒先で寝袋だけで泊まっていたとき、誰かが通報したのかパトカーが来た。
回転灯を回したパトカーが見えたかと思うと、道からは見えない場所に寝袋をひろげていたにもかかわらず、まっしぐらに僕のほうへ向かってきた。パトカーが止まると同時に警察官が飛び出して、ダッダッダとかけよってきた。ぼくはヤバイなぁと思ったけど、とりあえず寝袋から上半身を出して応対する姿勢をとった。
「おい、なにしてるんだ?」
「の、野宿です」
そのあと、「自分はいま東海道を歩いて旅行していてべつに怪しいものじゃない。勝手に役所の敷地にはいって悪いと思っている。でもどうか今晩だけ泊まらせてもらえないか」、こう続けようと思った。でも緊張のあまり続く言葉が出てこなかった。
しばしの沈黙。
警察官が口をひらいた。
「そうか、寒いから気をつけろよ」
そして来たときと同じくダッダッッダとパトカーに戻って、慌ただしく去っていった。残されたぼくはちょっと拍子抜けした。
だって、なにしてるんだってきかれて、野宿してるだなんて、見たまんまじゃない? どう考えてもアヤしいのにおまわりさんは問題にせずにいってしまった。
内心ぼくは悔しかった。京都から歩いてきたんですよ、そう自慢気にいってやろうと思ったのに。
あと野宿といえば無人駅も想い出ぶかい場所だ。
ぼくの旅はたいていひとりだけれど、高校の時、友だち五、六人で一週間くらい青春18切符をつかって無人駅どまりの旅をしたことがある。
これはこれで独り旅ではない楽しさがあった。無人駅泊まりなんて、ふつうからしたら「あぶない旅行」かもしれないけど、それに女の子二人を含めて五、六人も参加してくれた(五人だったか六人だったかはもう忘れた)のだ。それだけで驚きだったけど、みんなノリがよくて、そこでは静かな夜なんて趣はちっともなかった。無人駅でまわりに民家がないのをいいことに線路の上で花火をやったり、近くの真っ暗なトンネルで肝試しをしたり、さらにはちょっと犯罪まがいのこともやってしまった。
無人駅というのは終電が終わるとタイマーで照明が切れてしまう。そうなるとまわりは畑と山ばかりで家もなし。本当に真っ暗になってしまう。
そこで登場するのが持ち前の知識と技術。(というほどの大袈裟なことじゃないけど)高校が工業の電気科だったので、みんなそれなりに電気の素養はあった。さらに不思議なことにそんな旅行のときでも工具を持ってきたいたひとがいたのだ。電灯線を追いかけて錠のかかった電気の制御盤を見付け、ボルトをはずして蓋をあけ、中のスイッチを切り替えて、駅に徨々と明りをともしてしまったのだ。
ちょっとスリリングで本当に楽しいできごとだった。
こうして僕のしてきたことの一部を例を通して見てもらったわけだけど、まあだいたいがこんな雰囲気のものだ。
そこでやっていることのそれぞれを見れば、トレッキングだったりヒッチハイクだったり、登山だったり、キャンプだったり、野宿だったり、旅行だったりするわけで、これらすべてをくくれる言葉というのが思いつかない。そこでカッコよく『旅』と表現しているけど、これもかならずしも適切な言葉だとは思わない。
旅というと日常の生活の対極として位置づけられるニュアンスが感じられるけど、かならずしもそんなものじゃないと思う。
いまの僕の生活からしたら、旅は非日常としか言えないけれど、でも気持ち的には旅という場にいる自分の方が『生きている』気がするし、ゆくゆくは旅の延長としての日常が作れたらと思っている。
日常で息のつまる生活をしていて、一時的にそれから脱するための手段としての旅、そんな関わり方はしていきたくない。
ただ、旅という場での興奮と躍動感をもって日々を過ごしていきたい、そう思っている。
アウトドアブームだとかで、キャンプを経験したことのある人は多いと思うけど、キャンプというと山とか川とかのキャンプ場でテントを張って、夜はキャンプファイヤーをして、おいしいアウトドア料理を楽しむ、ってのがふつうでしょ、きっと。
ぼくの場合、キャンプというものをはじめたのが、どちらかというと登山系からだったから、そこまでカジュアル化はしていなかったけど、それでもキャンプは大自然の中でするものというイメージを持っていた。
はじめて町中でテントをはったのが、十七歳のときの東海道をめぐる最初の旅のときだ。
東京から箱根まで歩くにはどうあがいても一日じゃムリだということはわかっていた。なにしろ江戸時代の平均的なペースでも二泊三日かかっているんだから。
最初は宿に泊まりながら歩こうとか本気で考えていたけど、たかだか学校の宿題ごときでそこまでお金をかけるのはバカバカしい。
そこでピンとひらめいた。キャンプをすればいいんじゃん、と。東京から箱根の間には、多摩川、相模川、酒匂川、早川と、おおきな河が何本かある。酒匂川なんかは上流でキャンプができるんだから、下流の方だってできないことはないはずだ。
そんないきさつで平塚市内の相模川の河原と、小田原市内の酒匂川の橋のしたでキャンプをしたのがはじまりだった。
最初はいろんな意味で怖かった。十分も歩けばすぐに市街地という場所だ。夜中にわるいヤツがこないという保証はない。警察に怒られないだろうかとかマジメに心配した。それに橋のしたというと多摩川の河原なんかはそうだけど、『定住』しているひとがけっこういる。そんなひとたちの縄張りだったらどうしようとか、あげくのはて野良犬がきたらどうするかとか、心配は妄想的に広がっていった。
でも最初の旅のときは場所の選択がよかったのか、なんの問題もなく町中キャンプを終えることができた。
そこで思ったのは、アウトドア、アウトドアと世の中は騒いでいるけど、要は野外生活なわけでしょ、ってことは全身全霊をもって二十四時間アウトドアを実践してつわもの=ホームレスは、時代をさきゆくトレンディー、といってもいいんじゃないですか?ということ。
所詮はそんなもんなんだよ。キャンプったって野営だし(中国語では露営と書くしね)、アウトドアライフは戸外生活。浮浪者だってりっぱなキャンパー。浮浪者と軒を連ねて野宿してそうおもったね、ぼくは。
最初の町中でのキャンプで気をよくしたぼくは、それから旅の手段として町中キャンプを繰り返した。こうなるとキャンプという言葉の持つイメージからはかけはなれて、Way of overnight at everywhereという感じになってくる。
こうして、ぼくの中では旅行とキャンプの境界があいまいになって、旅という形になっていった。
キャンプという行為自体を楽しむこともあるけど、基本的には安宿の延長線上にあるヤドカリハウスという発想だ。
すごく自由になった気分がした。なんの気がねもなくどこへでも出かけられるのだ。
旅行のときいちばん費用がかさむのは宿泊代だけど、それが限りなく〇円に近いのだからこんなにうれしいことはない。それに加えて宿泊場所に決めたところが景色がよく、人が来なくて、コンディションが最高ならこれ以上の豪華なホテルはない。
いま、ふつうに民宿とかに泊まったら幾らくらいするのだろう? 比較的安いといわれているユースホステルだって、素泊まりで三千円くらいはするはずだ。
一夜を明かすだけで何千円も払うなら、それで旅の日数をのばしたほうがいいし、もっと遠くへ出かける費用にあてたほうが絶対にいい。
これが僕の旅だ。贅沢するくらいなら旅という時間に長く浸っていたい。宿に泊まってフカフカの布団に横になるなんて年とってからだってできるんだし、おいしいものを食べるのなら、なにも旅という場である必要はない。
でも、べつにそういうふつうの旅行を否定しているわけじゃない。それはそれで楽しいことは知っている。
でも「若いときの苦労は買ってでもしろ」ってわけじゃないけど、骨のある旅行をすることで、自分にプラスになっていることが多いのも事実だ。今しかできない勉強の一貫としての旅もいいと思う。
この淋しい世の中でもけっこう親切が残っていることに気づいたのは旅先でだったし、社会の営みのなかからはずれてみて、はじめて社会を客観的に捉えることができた。人間のもっている潜在的な力に驚かされたし、自然への畏怖も感じた。
そうしたことを知り、感じることは、どんな遊びよりも楽しく思えた。なによりうれしいのは、みんなで集まって騒いだりする遊びのあとに感じる空虚感に対して、旅という『遊び』には明らかに手応えがあって、確実にあとに残るものがあることだ。
バイトで稼いで貯金し、残高を増やすのが楽しみという人がいるかもしれない。楽しいという表現は語弊があるかもしれないけれど、すくなくとも預金が増えるというのはうれしいことであるはずだ。
ちょうどそれと同じようなことを僕は旅に感じる。旅に出ると、ふだん気づかなかったようなものごとに出会い、新しい世界が開ける。そしてそこで得た感覚、視野、体験、苦労はみんな僕の中の貯金としてたまっていく。貯金と違うのはそれが出ていくことはないということ。たまる一方だ。それに、たまった知識を自分なりに咀嚼して『考える』ことをしていけば、それはいくらでも新たな知識として膨らんでいく。いわば利子みたいなものだ。
僕が旅に出る理由を理屈っぽく説明するとこんな感じになるのだろう。でもこんな難しいことをゴネなくても旅は楽しい。たまにある苦労とかつらい部分をなんとかプラス方向にもっていこうとすると、こんな話になるのかもしれない。
まあ、とにかく僕はそんなつもりで旅を続けてきた。そこでいろいろなことを『感じた』というのは、やはりそれまで自分のもっていた『常識』から外れた世界を体験したからであって、すなわちそれは話のネタになるようなかわった体験であると思う。
キャンプ(野宿)に関わるそんな体験のいくつかを紹介したいと思う。
ふつうの町中でキャンプをするとしたらどんな場所があるだろうか。僕は安全だと直感したところならどこだって泊まった。河原の橋の下、公園、神社、美術館の軒先、図書館の駐輪場、無人の駅、バスの待合所、駐車場、道路の脇、などなど。
静岡県の静岡市内を歩いているときのこと。阿部川の近くで日が暮れて、どこかで泊まらなくちゃいけなかったんだけど、どうにも疲れていて寝床をさがすのも億劫に思えたときがあった。なかばすてばちの気持ちで交番で尋ねてみた。「どこかテントを張れる場所がありませんか」、そうしたら、そのお巡りさんがいい人で、交番の裏にテントを張ったらいいといってくれた。「ひと晩だけど近所づきあいしようや」、そういってお巡りさんはリンゴをくれたり、とても親切にしてくれた。
同じく静岡の興津というところで、神社でテントを張らしてほしいとお願いしたとき、宮司さんが、拝殿のなかで寝なさいと言ってくれたことがあった。拝殿というとあの御神体があるところだ。ちょっとおっかなかったから辞退したけど、こんなふうにこっちはいかにも怪しい放浪者にすぎないのに、意外な親切を示されて驚くことがある。
反対にこわい思いをしたこともあった。静岡県の富士市役所のとなりの公園にテントを張ったときのこと、地元のヤンキーの襲撃にあった。
きれいなよく整備された大きな公園、これなら奥の方にテントを張れば目立たないだろう、そう考えたのがまちがいだった。
いま思えば、そこは横浜の山下公園にちかい雰囲気だった、そう書けば分かってもらえるだろうか。
昼間はともかく夜中になるとやたらとよくない輩が集まるのだ。概してそういう人たちは人目を避けて目立たない場所にいきたがる。まさにそんな場所にぼくはテントを張ってしまっていた。ふつうの人があまりこないということは、そういう連中は思う存分に好き勝手なことができるということで、いま思えばよく石を投げられただけで済んだものだと思う。
相手は高校生らしき三人組。奇声を上げながらテントの周りを自転車で走り回り、遠巻きに小石を投げはじめた。三十分ほどそうしたあと、やっと諦めて帰っていったかと思ったら、今度は遠くから大きな石がとんでくるようになった。テントを見下ろせる高台があってそこから投石しているようだ。さいわいテントは休憩所のような日よけのしたに張っていたから、直撃は免れたけど、プラスチック製屋根に石があたってすごい音を発していた。翌日テントを出てみると拳大の石が転がっていた。
で、そのあいだぼくはテントの中でなにをしていたかというと、意味はないと知りつつもナイフを握り締めて、震えていた。そうするしかなかった。
まあ、結果的にはなんの実害も受けずに終わったから良かったんだけど。
また、こんなこともあった。岐阜県の知立市役所の軒先で寝袋だけで泊まっていたとき、誰かが通報したのかパトカーが来た。
回転灯を回したパトカーが見えたかと思うと、道からは見えない場所に寝袋をひろげていたにもかかわらず、まっしぐらに僕のほうへ向かってきた。パトカーが止まると同時に警察官が飛び出して、ダッダッダとかけよってきた。ぼくはヤバイなぁと思ったけど、とりあえず寝袋から上半身を出して応対する姿勢をとった。
「おい、なにしてるんだ?」
「の、野宿です」
そのあと、「自分はいま東海道を歩いて旅行していてべつに怪しいものじゃない。勝手に役所の敷地にはいって悪いと思っている。でもどうか今晩だけ泊まらせてもらえないか」、こう続けようと思った。でも緊張のあまり続く言葉が出てこなかった。
しばしの沈黙。
警察官が口をひらいた。
「そうか、寒いから気をつけろよ」
そして来たときと同じくダッダッッダとパトカーに戻って、慌ただしく去っていった。残されたぼくはちょっと拍子抜けした。
だって、なにしてるんだってきかれて、野宿してるだなんて、見たまんまじゃない? どう考えてもアヤしいのにおまわりさんは問題にせずにいってしまった。
内心ぼくは悔しかった。京都から歩いてきたんですよ、そう自慢気にいってやろうと思ったのに。
あと野宿といえば無人駅も想い出ぶかい場所だ。
ぼくの旅はたいていひとりだけれど、高校の時、友だち五、六人で一週間くらい青春18切符をつかって無人駅どまりの旅をしたことがある。
これはこれで独り旅ではない楽しさがあった。無人駅泊まりなんて、ふつうからしたら「あぶない旅行」かもしれないけど、それに女の子二人を含めて五、六人も参加してくれた(五人だったか六人だったかはもう忘れた)のだ。それだけで驚きだったけど、みんなノリがよくて、そこでは静かな夜なんて趣はちっともなかった。無人駅でまわりに民家がないのをいいことに線路の上で花火をやったり、近くの真っ暗なトンネルで肝試しをしたり、さらにはちょっと犯罪まがいのこともやってしまった。
無人駅というのは終電が終わるとタイマーで照明が切れてしまう。そうなるとまわりは畑と山ばかりで家もなし。本当に真っ暗になってしまう。
そこで登場するのが持ち前の知識と技術。(というほどの大袈裟なことじゃないけど)高校が工業の電気科だったので、みんなそれなりに電気の素養はあった。さらに不思議なことにそんな旅行のときでも工具を持ってきたいたひとがいたのだ。電灯線を追いかけて錠のかかった電気の制御盤を見付け、ボルトをはずして蓋をあけ、中のスイッチを切り替えて、駅に徨々と明りをともしてしまったのだ。
ちょっとスリリングで本当に楽しいできごとだった。
こうして僕のしてきたことの一部を例を通して見てもらったわけだけど、まあだいたいがこんな雰囲気のものだ。
そこでやっていることのそれぞれを見れば、トレッキングだったりヒッチハイクだったり、登山だったり、キャンプだったり、野宿だったり、旅行だったりするわけで、これらすべてをくくれる言葉というのが思いつかない。そこでカッコよく『旅』と表現しているけど、これもかならずしも適切な言葉だとは思わない。
旅というと日常の生活の対極として位置づけられるニュアンスが感じられるけど、かならずしもそんなものじゃないと思う。
いまの僕の生活からしたら、旅は非日常としか言えないけれど、でも気持ち的には旅という場にいる自分の方が『生きている』気がするし、ゆくゆくは旅の延長としての日常が作れたらと思っている。
日常で息のつまる生活をしていて、一時的にそれから脱するための手段としての旅、そんな関わり方はしていきたくない。
ただ、旅という場での興奮と躍動感をもって日々を過ごしていきたい、そう思っている。
2006年11月20日
東海道踏破をとおして学んだこと(『旧東海道徒歩の旅』より部分抜粋)
最初は「絶対に無理だ」と、夢のまた夢という感じに捉えていた東海道連続踏破を、いつの間にか果たしてしまっていた。
東海道を全部歩くなんて、普段から体を鍛えていて筋骨隆々の人が苦労してこそ、はじめて成せる業かと思っていた。それが、ろくすっぽ体も動かしてない見るからに〈運動音痴タイプ〉の自分にできたなんて信じられない。
少なくとも僕は、「なにか運動をなされているんですか?」などと尋ねれるような風貌はしていないし、事実、足などは気持ち悪いくらいに細い。これが女性であれば、非常に望ましいことなのかもしれない。去年の五月に踵を砕く骨折をして入院したのだが、そのときに看護婦さんから「まあ、きれいな足ね」と褒められたくらいだ。
この一連の旅を通して、感じたこと、学んだことはたくさんあるが、その一つに「人の持つ無限の可能性」というのがある。また「精神力はなにものにも勝る」という点も合わせて述べておきたい。
最初、僕は五百キロを歩くことなんか不可能だと思った。さらに言えば百キロを歩くことすら無理じゃないかと考えていた。でも実際やってみたら簡単にとはいわないができてしまった。つまり、僕はできないと思ったのであって、できなかったわけではないのだ。
歩いているときは本当につらかった。いま思うと、なに甘っちょろいこと言ってるんだという感じだが、そのときは「これ以上のつらさがあるだろうか」と本気で思った。これ以上歩いたら人間の限界をこえて死んでしまうのではないかとすら思った。でもそれはすべて思っただけであって、実際はなにも問題はなかった。
歩いているときは、ずっと自分の限界に挑戦していた。これでもかこれでもかと自分を痛めつけるようなことを続けてきた。それで本当の限界に達したかと言うと、決してそんなことはなく、限界に近づこうとすればするほど、それは遠のいていった。
そこで感じたのは「人には無限の可能性がある」ということだった。つまり人に限界というものはないのではないかということだ。もちろん生身の人間に水中で生活しろといっても無理なものは無理だ。でも、そう飛躍的なことではなく、人が今持っている能力をどこまで伸ばせるかという点においては限界はないと思った。
それでも限界を感じるのは、自分でそれがあると思い込んで、勝手に境界線を引いてしまっているだけ。
二十キロの荷を負って一日に歩ける距離は二十五キロ。どんなに頑張っても二十五キロが限界でそれ以上は無理。最初はそう思っていた。それはある程度の経験から得られた限界点だった。
でも「死ぬ気」で思いきって限界に挑戦してみたら、それはあっけなく破られた。これによって限界点は三十キロに伸びた。
これこそ本当の限界だろう、そう思ったが、この記録もまた破られた。こうして最終的には七十キロまで歩くことができた。こうなると最初の二十五キロというのはいったいなんだったのだろうか。それは自分に甘えていただけ。自分の弱さゆえに自分の持ち得る能力を発揮していなかっただけなのだ。この七十キロというのだって今までに確認した範囲だけだから、まだまだ伸びる可能性は十分にある。というより、まだまだ歩き続けることができるだろう。
今は、たまたま『歩き』を例にあげたが、これは実生活のどんな面にでも言えることでないだろうか。どうせできないといって諦めていたものでも人間の持つ能力からすれば十分に可能だった。そんなことがいくらでもあると思う。ただしそれにはいくらかの苦痛が伴うかも知れない。それでもそれから逃げなければ、人が不可能といえることは極端に少ないのではないかと考えさせられた。
このとき同時に感じたのは、先ほども述べた「精神力はなにものにも勝る」という点だった。疲れきって歩いているときというのは恐らく肉体的には限界に近いものがあっただろう。もしかしたら限界を超えていたのかもしれない。体を思い通りコントロールするのができないようなこともあったからだ。そんな時でも不思議と体を動かすことだけはできた。よく人が口にする「もう一歩も動けない」という状態にはどうやっても、お目に掛かることはできなかった。
それにいくら疲れていても、何か外的要因で励みが得られた時 たとえば見ず知らずの人に親切にしてもらったとき などは不思議と疲れや辛さをまったく感じなかった。
その変化が自分でも気持ち悪いくらいで、「なんでも気の持ちよう」というのを痛感させられた。
これほどに気持ち、つまり精神の作用を強く感じたのは初めてだった。だからその精神力を鍛えてやれば、どんなものごとにも対処できると感じた。
精神的強さは肉体的強さをカバーできる。そう考えるときに『火事場のくそ力』というのを思い出した。生理学的にどういう作用が働くかなんてことは知らないが、その場の緊迫した状況によって通常を超えた力が発揮されることは事実だ。
もし、その緊迫した状態というのを仮想的に作り出してやることが自由にできれば、それはすごいことではないだろうか。実際にそんなことができるかはわからないが、この『歩く』ということを通して、その可能性を感じた。
東海道を歩くという行為に対して人がどう評価するかはわからない。
「五百キロも歩いたんですか、そうですか、すごいですね」
そうは言っても心では、
(そんな歩いてなにが楽しいんだよ、ヒマな奴だな)
と思っている。まあ、そんなところだろう。
たしかにいくら歩いたって、日本の政治が変わるわけじゃないし、社会に貢献するわけでもない。
まったく意味のないこと、そうかもしれない。でも周りからどういわれようとも、それが自分にとって大いに意味があったことは間違いない。
この一連の旅を通して学んだことはたくさんある。こうして文章で表現できるのも、そのうちのごく一部だけで、考え方やものごとの捉えかたなどの微妙な点で実に多くのものを得た。それらは本当にかけがえのないものだと思う。野宿を繰り返しながら歩き続ける。そんな特殊な状況に身を置いたからこそ気づいたことがあまりに多すぎる。
最後の旅で十二日間、トータルで二十二日におよぶ旅だったが、その間の日々は本当に密度の濃いものだった。普段の生活の何年分にも相当するような印象すら受ける。普通なら何年もかかって知ることを、ごく短い間に学ぶことができたように感じる。
『知る』とか『学ぶ』ということの近道は、『きっかけ』にあると思う。本を読んだりとか様々な形で『学ぶ』ことはいくらでもできるが、それは今までにあった自分というものの上に積み重ねていくという部分が大きい。いうなれば自分という大きな枠の中の密度を高めるだけであって、その枠を抜け出すということはなかなか難しい。
でも、何かの『きっかけ』があれば、驚くほど簡単に、その枠を飛び越えることができる。枠を飛び越えるというのは、今までになかった新しい視点を身につけること。そうすると何もかもが新鮮に見えて、今まで知っていたことに対しては、より多角的に、また深く掘り下げて考えられるようになる。そして何より、今までは見向きもしなかったことにも、目を向けられるようになる。
本などの書物が、そのきっかけを与えてくれることもあるが、どうもメディアを媒介したものだと、その飛躍度があまり大きくない気がする。
やはり実際に体験してみることに勝ることはない。その点で旅行が与える影響は大きい。
そんな意味で、この旅は僕にとって、とても大きいものだった。
自分から『きっかけ』を求める行為、それが旅だと僕は思っている。積極的に自分から働き掛けること、それはとても大切なことだ。その姿勢を忘れたくない。
しかし、なにもそればかりではない。
日常生活の何気ない出来事、例えばテレビの映像、映画、本、人と接すること。それこそ身の回りのすべてのものごとが、何かの『きっかけ』になり得る。要はそれに気づくかどうか。気づいても見過ごしていることはないだろうか。
忙しくなく先へと進んでいる世の中で生活していても、立ち止まることを忘れたくない。心を動かされることに出会ったら、迷わず立ち止まってみる。
先を急ぐあまりに大切な物を失うことのないように
最初は小さな好奇心からはじまったものであったが、それは大きなものを残していった。
東海道を全部歩くなんて、普段から体を鍛えていて筋骨隆々の人が苦労してこそ、はじめて成せる業かと思っていた。それが、ろくすっぽ体も動かしてない見るからに〈運動音痴タイプ〉の自分にできたなんて信じられない。
少なくとも僕は、「なにか運動をなされているんですか?」などと尋ねれるような風貌はしていないし、事実、足などは気持ち悪いくらいに細い。これが女性であれば、非常に望ましいことなのかもしれない。去年の五月に踵を砕く骨折をして入院したのだが、そのときに看護婦さんから「まあ、きれいな足ね」と褒められたくらいだ。
この一連の旅を通して、感じたこと、学んだことはたくさんあるが、その一つに「人の持つ無限の可能性」というのがある。また「精神力はなにものにも勝る」という点も合わせて述べておきたい。
最初、僕は五百キロを歩くことなんか不可能だと思った。さらに言えば百キロを歩くことすら無理じゃないかと考えていた。でも実際やってみたら簡単にとはいわないができてしまった。つまり、僕はできないと思ったのであって、できなかったわけではないのだ。
歩いているときは本当につらかった。いま思うと、なに甘っちょろいこと言ってるんだという感じだが、そのときは「これ以上のつらさがあるだろうか」と本気で思った。これ以上歩いたら人間の限界をこえて死んでしまうのではないかとすら思った。でもそれはすべて思っただけであって、実際はなにも問題はなかった。
歩いているときは、ずっと自分の限界に挑戦していた。これでもかこれでもかと自分を痛めつけるようなことを続けてきた。それで本当の限界に達したかと言うと、決してそんなことはなく、限界に近づこうとすればするほど、それは遠のいていった。
そこで感じたのは「人には無限の可能性がある」ということだった。つまり人に限界というものはないのではないかということだ。もちろん生身の人間に水中で生活しろといっても無理なものは無理だ。でも、そう飛躍的なことではなく、人が今持っている能力をどこまで伸ばせるかという点においては限界はないと思った。
それでも限界を感じるのは、自分でそれがあると思い込んで、勝手に境界線を引いてしまっているだけ。
二十キロの荷を負って一日に歩ける距離は二十五キロ。どんなに頑張っても二十五キロが限界でそれ以上は無理。最初はそう思っていた。それはある程度の経験から得られた限界点だった。
でも「死ぬ気」で思いきって限界に挑戦してみたら、それはあっけなく破られた。これによって限界点は三十キロに伸びた。
これこそ本当の限界だろう、そう思ったが、この記録もまた破られた。こうして最終的には七十キロまで歩くことができた。こうなると最初の二十五キロというのはいったいなんだったのだろうか。それは自分に甘えていただけ。自分の弱さゆえに自分の持ち得る能力を発揮していなかっただけなのだ。この七十キロというのだって今までに確認した範囲だけだから、まだまだ伸びる可能性は十分にある。というより、まだまだ歩き続けることができるだろう。
今は、たまたま『歩き』を例にあげたが、これは実生活のどんな面にでも言えることでないだろうか。どうせできないといって諦めていたものでも人間の持つ能力からすれば十分に可能だった。そんなことがいくらでもあると思う。ただしそれにはいくらかの苦痛が伴うかも知れない。それでもそれから逃げなければ、人が不可能といえることは極端に少ないのではないかと考えさせられた。
このとき同時に感じたのは、先ほども述べた「精神力はなにものにも勝る」という点だった。疲れきって歩いているときというのは恐らく肉体的には限界に近いものがあっただろう。もしかしたら限界を超えていたのかもしれない。体を思い通りコントロールするのができないようなこともあったからだ。そんな時でも不思議と体を動かすことだけはできた。よく人が口にする「もう一歩も動けない」という状態にはどうやっても、お目に掛かることはできなかった。
それにいくら疲れていても、何か外的要因で励みが得られた時 たとえば見ず知らずの人に親切にしてもらったとき などは不思議と疲れや辛さをまったく感じなかった。
その変化が自分でも気持ち悪いくらいで、「なんでも気の持ちよう」というのを痛感させられた。
これほどに気持ち、つまり精神の作用を強く感じたのは初めてだった。だからその精神力を鍛えてやれば、どんなものごとにも対処できると感じた。
精神的強さは肉体的強さをカバーできる。そう考えるときに『火事場のくそ力』というのを思い出した。生理学的にどういう作用が働くかなんてことは知らないが、その場の緊迫した状況によって通常を超えた力が発揮されることは事実だ。
もし、その緊迫した状態というのを仮想的に作り出してやることが自由にできれば、それはすごいことではないだろうか。実際にそんなことができるかはわからないが、この『歩く』ということを通して、その可能性を感じた。
東海道を歩くという行為に対して人がどう評価するかはわからない。
「五百キロも歩いたんですか、そうですか、すごいですね」
そうは言っても心では、
(そんな歩いてなにが楽しいんだよ、ヒマな奴だな)
と思っている。まあ、そんなところだろう。
たしかにいくら歩いたって、日本の政治が変わるわけじゃないし、社会に貢献するわけでもない。
まったく意味のないこと、そうかもしれない。でも周りからどういわれようとも、それが自分にとって大いに意味があったことは間違いない。
この一連の旅を通して学んだことはたくさんある。こうして文章で表現できるのも、そのうちのごく一部だけで、考え方やものごとの捉えかたなどの微妙な点で実に多くのものを得た。それらは本当にかけがえのないものだと思う。野宿を繰り返しながら歩き続ける。そんな特殊な状況に身を置いたからこそ気づいたことがあまりに多すぎる。
最後の旅で十二日間、トータルで二十二日におよぶ旅だったが、その間の日々は本当に密度の濃いものだった。普段の生活の何年分にも相当するような印象すら受ける。普通なら何年もかかって知ることを、ごく短い間に学ぶことができたように感じる。
『知る』とか『学ぶ』ということの近道は、『きっかけ』にあると思う。本を読んだりとか様々な形で『学ぶ』ことはいくらでもできるが、それは今までにあった自分というものの上に積み重ねていくという部分が大きい。いうなれば自分という大きな枠の中の密度を高めるだけであって、その枠を抜け出すということはなかなか難しい。
でも、何かの『きっかけ』があれば、驚くほど簡単に、その枠を飛び越えることができる。枠を飛び越えるというのは、今までになかった新しい視点を身につけること。そうすると何もかもが新鮮に見えて、今まで知っていたことに対しては、より多角的に、また深く掘り下げて考えられるようになる。そして何より、今までは見向きもしなかったことにも、目を向けられるようになる。
本などの書物が、そのきっかけを与えてくれることもあるが、どうもメディアを媒介したものだと、その飛躍度があまり大きくない気がする。
やはり実際に体験してみることに勝ることはない。その点で旅行が与える影響は大きい。
そんな意味で、この旅は僕にとって、とても大きいものだった。
自分から『きっかけ』を求める行為、それが旅だと僕は思っている。積極的に自分から働き掛けること、それはとても大切なことだ。その姿勢を忘れたくない。
しかし、なにもそればかりではない。
日常生活の何気ない出来事、例えばテレビの映像、映画、本、人と接すること。それこそ身の回りのすべてのものごとが、何かの『きっかけ』になり得る。要はそれに気づくかどうか。気づいても見過ごしていることはないだろうか。
忙しくなく先へと進んでいる世の中で生活していても、立ち止まることを忘れたくない。心を動かされることに出会ったら、迷わず立ち止まってみる。
先を急ぐあまりに大切な物を失うことのないように
最初は小さな好奇心からはじまったものであったが、それは大きなものを残していった。
(March 4,1995)
2007年01月02日
旅人たち
ひとり旅をしているひとというのは、考える人ばかりだ。それはいままでに会ったひとに共通している。そりゃ意識的に主体性を持って行動しているのだから当然かもしれない。
パック旅行のように与えられたプランについていくのではなく、自分で考え、情報収集し、行動するのだから、少なくとも無気力であったり、消極的であるはずがない。
みな考え深い人であると同時に、何かに対して積極的な探求心を持ち、「自分」というものを持っている。それにパワーにあふれている。人間らしい人間。ロボット的な人たちが多い今だからこそ、こんな言い方になってしまうのかもしれない。
繰り返しになるかもしれないけど、みんな何かしらの疑問を抱いていた。その答えに到達するために旅をしているのでないかとすら思ってしまう。Tさんなんかはまさにそれだ。自分はどこから来て、どこへ向かうのか。それを求めている。それが彼の「仕事」だ。イリオモテで一年訓練をして、世界へ旅立つ。そのために過去を精算して、社会的自分を死んだものにしてきた。彼のその行動をすごいとは思うが、特別なこととは思わない。自然な、ありのままの人間なのだと思う。
自由に生きているMさんなんかをみて思うのだが、社会に適応できてしまう人というのは、その代償になにか大切なものを見失ってしまっているのではないかという気がする。いいかえれば社会に何の疑問も感じない(もしくは感じても自分をそれに合わせられてしまう)人は、自然な自分を押し殺してしまっている、自分が生きるのではなく、社会を生かすために命を持つ人になってしまっているのではないか。
そんなことをいうには、もっと社会を知らなくてはいけないのだろうが、直感的に人について考えるときにそう感じる。
「普通」の人たちは、こうした旅人を異常扱いしたがるかもしれないが、本当は自分たちが不自然であることに気付いているのかもしれない。自分の心の欲するところを行なうだけの勇気がなくて、でもそうした自分を認めたくないゆえに自分を正当化しているのかもしれない。彼らにとって社会、常識というのは果てしない高さのカベなのだろう。しかし、そのカベの限界をみきわめた人、それが、今、ここにいる人たちなのかもしれない。
パック旅行のように与えられたプランについていくのではなく、自分で考え、情報収集し、行動するのだから、少なくとも無気力であったり、消極的であるはずがない。
みな考え深い人であると同時に、何かに対して積極的な探求心を持ち、「自分」というものを持っている。それにパワーにあふれている。人間らしい人間。ロボット的な人たちが多い今だからこそ、こんな言い方になってしまうのかもしれない。
繰り返しになるかもしれないけど、みんな何かしらの疑問を抱いていた。その答えに到達するために旅をしているのでないかとすら思ってしまう。Tさんなんかはまさにそれだ。自分はどこから来て、どこへ向かうのか。それを求めている。それが彼の「仕事」だ。イリオモテで一年訓練をして、世界へ旅立つ。そのために過去を精算して、社会的自分を死んだものにしてきた。彼のその行動をすごいとは思うが、特別なこととは思わない。自然な、ありのままの人間なのだと思う。
自由に生きているMさんなんかをみて思うのだが、社会に適応できてしまう人というのは、その代償になにか大切なものを見失ってしまっているのではないかという気がする。いいかえれば社会に何の疑問も感じない(もしくは感じても自分をそれに合わせられてしまう)人は、自然な自分を押し殺してしまっている、自分が生きるのではなく、社会を生かすために命を持つ人になってしまっているのではないか。
そんなことをいうには、もっと社会を知らなくてはいけないのだろうが、直感的に人について考えるときにそう感じる。
「普通」の人たちは、こうした旅人を異常扱いしたがるかもしれないが、本当は自分たちが不自然であることに気付いているのかもしれない。自分の心の欲するところを行なうだけの勇気がなくて、でもそうした自分を認めたくないゆえに自分を正当化しているのかもしれない。彼らにとって社会、常識というのは果てしない高さのカベなのだろう。しかし、そのカベの限界をみきわめた人、それが、今、ここにいる人たちなのかもしれない。
(旅の私日記 一九九五年八月二十一日より抜粋)
2007年01月04日
英語―そして世界へ
英語が苦手だ。得意、不得意という以前に、まったくできない。
中学以来、もう六年以上は勉強していることになっているが、それは形ばかりであって、実際のところなにひとつ理解っていない。
中学の最初にならうBe動詞にしても、それがおぼろながらにつかめたのは高校に入ってからだった。原形がbeで、その活用形がis, am, are などであると知ったのが高校のはじめで、is, am, are が動詞であることを理解したのはもっとあとである。
This is a pen. これはペンです これ=ペン。なんにも動作をしていないではないか、これをどうして動詞というのか。
これでひっかかって以来、英語というのは理論はめちゃくちゃで、おぼえるしかない学問、というイメージが定着し、高校まで学習の進歩はまったくなかった。
高校、そこでの英語の授業はなかなかのものだった。無断欠勤しがちな先生の授業は、教科書の長文の和訳をひたすらしゃべり続けるだけ。そしてテスト前には「愛のメモ」なるプリントが配られ、それには単語がならんでいる。その順番さえ覚えておけばテストで六十五点はとれるという仕組みになっている。
順番さえ、というのがミソで、単語の意味も綴りもわからないでも、それだけの点がとれてしまうのである。
そんな授業が週二時間。それが高校三年間の英語のすべてだった。
そして今、大学。これには英語の試験なしで入学した。だから一応は大学生をやっているが、いままでにまともに英語を勉強したことはないのだ。
ここで初めて今までのツケがまわってくることとなった。
まわりはすべて、普通高校でそれなりに英語をやってきた人たち。それに加えて、受験のためにも一生懸命とやってきたことだろう。
結果として、彼らにとっては当たり前のことでも、僕はなにひとつ知らない、それが現実であった。
当然である。中学のときですら単語をおぼえようと努力したなんて経験はないし、文法なんて、最初から理解できないと思ってたから聞いちゃいなかった。だから、現在完了といわれてもなんだかわからないし、不定詞、未来型もよくわからない。三単現による動詞の活用もおぼろである。
またなにより辞書というものをつかったことがなかった。大学の授業のとき、まわりのみんなが、ボロボロに使い込んだ辞書をめくりめくり、先生の話を聞いているのをみて、あわてて辞書を買いに走ったものである。しかし、使い慣れないせいで、ひとつの語をひくのに五分もかかり、そこでもみんなとの差がひらけていった。
で、この話を学校ですると、みんな信じられないという顔をする。大学まできていながら、一度も辞書を使ったことのないやつなんて信じられない、というのだ。しかし、現にこうやって存在し、そして苦労しているのである。
以上、僕の英語歴をざっと述べたが、そんなわけだから、自分は英語ができるとは夢にも思っていない。実力とすれば中学一年くらいあればいいほうだろう。
あまりいいたくはないが、大学の試験のときに高校一年の妹に文法の基礎を教えてもらっていたのが実情である。まあ、妹はあきれていたが。
日本人なんだから日本語がわかれば日本の社会は生きていける、そんな開き直りから、英語のことはあきらめかけていた。
海外旅行のときとか英語ができないと不便ではないか―そう考えたことは一度ならずもあったが、結局は、「外国へ行かなければ英語は必要ない」、が結論だった。
だから、旅行は好きでも、外国をその対象として考えたことはなかった。まあ、根っからの貧乏旅行ばかりだったということもあって、外国=金がかかる、という図式から、金銭的にも海外へ行けるなどとは思ってもいなかった。
ところが、西表島で出会った人たちの話を聞くうちに、次第に考えがかわってきた。なんだか、自分でも、そこに行けそうな気がしてきたのだ。
ひとりの自由旅行で海外をまわるような人というと、当然英語がバリバリの人だと思ってしまう。しかし実際はそうとは限らないという現実を知ったのが大きかった。
出会った人の大半は、それなりに人生経験もゆたかな人たちばかりだったから、今はそれなりに英語を扱えるようだったが、それとて旅先の必要から必然とおぼえたということだった。つまり最初はなんにもわからずに飛び出したのだ。中学以来英語がわからず、高校でもいつも赤点ぎりぎりだったなんて人の多いこと。日本でしっかり英語をマスターしてから出かけたなんて人はついぞやお目にかかれなかった。
最初はそれなりに苦労はあるようだが、それとてたいしたものではなく、どうにかなってしまうものらしい。
そんな話をいくつもの具体例をまじえて聴いていると、次第に重いプレッシャーとしてのしかかっていた「英語」が、軽く思えるようになってきた。
それに加えて、格安航空券と海外での物価の実態。また外国ならではの興味ぶかい体験。それらを聴くうちに、いつしか、自分のなかに描いていた海外旅行像がことごとく崩されて、それを毛嫌いする理由がなにもないことに気づいた。
外国に出るのに必要なのは、英語でもお金でもなく、度胸である、誰かがそういっていたのを思い出す。
言葉、そして金銭。それらに拘泥する必要がないとわかったいま、僕にも世界というおおきなフィールドがひらけてきた。
どうも最近、旅行ということに新鮮味が欠ける気がしていた。キャンプなどにしても勝手を知ってしまい、以前にあったような不安感のようなものがなくなり、自由になった反面、大きく感動することも少なくなった。
しかし、いま世界を前にして、初心に返ったような気がしている。端的にいってしまえば、こわい。未知のものに向かっていくことに大きな不安を感じる。でもいままでにない、おおきなやる気で満ちている。これこそ、旅をはじめた当初に抱いた気持ちだと思い出した。
やはり旅にはスリルが必要なのだ。実体の見えない未知の世界に向かうという感覚がなにより楽しい。
今の気持ちをどう表現したらよいだろうか。
真っ暗な洞窟におそるおそる足を踏みいれる。そこ知れぬ深みにビクビクしながらも先へ進む。しかし、その一番奥に到達してしまうと、その魅力は半減してしまう。しかしそんなときに新たな枝洞をみつけ、それこそ無限に近い広がりがあることに気づく。まさに新しい世界がひらけた。
と、いったらわかってもらえるだろうか。
世界へ。そう、文字どおり新しい世界へ旅立つ。
中学以来、もう六年以上は勉強していることになっているが、それは形ばかりであって、実際のところなにひとつ理解っていない。
中学の最初にならうBe動詞にしても、それがおぼろながらにつかめたのは高校に入ってからだった。原形がbeで、その活用形がis, am, are などであると知ったのが高校のはじめで、is, am, are が動詞であることを理解したのはもっとあとである。
This is a pen. これはペンです これ=ペン。なんにも動作をしていないではないか、これをどうして動詞というのか。
これでひっかかって以来、英語というのは理論はめちゃくちゃで、おぼえるしかない学問、というイメージが定着し、高校まで学習の進歩はまったくなかった。
高校、そこでの英語の授業はなかなかのものだった。無断欠勤しがちな先生の授業は、教科書の長文の和訳をひたすらしゃべり続けるだけ。そしてテスト前には「愛のメモ」なるプリントが配られ、それには単語がならんでいる。その順番さえ覚えておけばテストで六十五点はとれるという仕組みになっている。
順番さえ、というのがミソで、単語の意味も綴りもわからないでも、それだけの点がとれてしまうのである。
そんな授業が週二時間。それが高校三年間の英語のすべてだった。
そして今、大学。これには英語の試験なしで入学した。だから一応は大学生をやっているが、いままでにまともに英語を勉強したことはないのだ。
ここで初めて今までのツケがまわってくることとなった。
まわりはすべて、普通高校でそれなりに英語をやってきた人たち。それに加えて、受験のためにも一生懸命とやってきたことだろう。
結果として、彼らにとっては当たり前のことでも、僕はなにひとつ知らない、それが現実であった。
当然である。中学のときですら単語をおぼえようと努力したなんて経験はないし、文法なんて、最初から理解できないと思ってたから聞いちゃいなかった。だから、現在完了といわれてもなんだかわからないし、不定詞、未来型もよくわからない。三単現による動詞の活用もおぼろである。
またなにより辞書というものをつかったことがなかった。大学の授業のとき、まわりのみんなが、ボロボロに使い込んだ辞書をめくりめくり、先生の話を聞いているのをみて、あわてて辞書を買いに走ったものである。しかし、使い慣れないせいで、ひとつの語をひくのに五分もかかり、そこでもみんなとの差がひらけていった。
で、この話を学校ですると、みんな信じられないという顔をする。大学まできていながら、一度も辞書を使ったことのないやつなんて信じられない、というのだ。しかし、現にこうやって存在し、そして苦労しているのである。
以上、僕の英語歴をざっと述べたが、そんなわけだから、自分は英語ができるとは夢にも思っていない。実力とすれば中学一年くらいあればいいほうだろう。
あまりいいたくはないが、大学の試験のときに高校一年の妹に文法の基礎を教えてもらっていたのが実情である。まあ、妹はあきれていたが。
日本人なんだから日本語がわかれば日本の社会は生きていける、そんな開き直りから、英語のことはあきらめかけていた。
海外旅行のときとか英語ができないと不便ではないか―そう考えたことは一度ならずもあったが、結局は、「外国へ行かなければ英語は必要ない」、が結論だった。
だから、旅行は好きでも、外国をその対象として考えたことはなかった。まあ、根っからの貧乏旅行ばかりだったということもあって、外国=金がかかる、という図式から、金銭的にも海外へ行けるなどとは思ってもいなかった。
ところが、西表島で出会った人たちの話を聞くうちに、次第に考えがかわってきた。なんだか、自分でも、そこに行けそうな気がしてきたのだ。
ひとりの自由旅行で海外をまわるような人というと、当然英語がバリバリの人だと思ってしまう。しかし実際はそうとは限らないという現実を知ったのが大きかった。
出会った人の大半は、それなりに人生経験もゆたかな人たちばかりだったから、今はそれなりに英語を扱えるようだったが、それとて旅先の必要から必然とおぼえたということだった。つまり最初はなんにもわからずに飛び出したのだ。中学以来英語がわからず、高校でもいつも赤点ぎりぎりだったなんて人の多いこと。日本でしっかり英語をマスターしてから出かけたなんて人はついぞやお目にかかれなかった。
最初はそれなりに苦労はあるようだが、それとてたいしたものではなく、どうにかなってしまうものらしい。
そんな話をいくつもの具体例をまじえて聴いていると、次第に重いプレッシャーとしてのしかかっていた「英語」が、軽く思えるようになってきた。
それに加えて、格安航空券と海外での物価の実態。また外国ならではの興味ぶかい体験。それらを聴くうちに、いつしか、自分のなかに描いていた海外旅行像がことごとく崩されて、それを毛嫌いする理由がなにもないことに気づいた。
外国に出るのに必要なのは、英語でもお金でもなく、度胸である、誰かがそういっていたのを思い出す。
言葉、そして金銭。それらに拘泥する必要がないとわかったいま、僕にも世界というおおきなフィールドがひらけてきた。
どうも最近、旅行ということに新鮮味が欠ける気がしていた。キャンプなどにしても勝手を知ってしまい、以前にあったような不安感のようなものがなくなり、自由になった反面、大きく感動することも少なくなった。
しかし、いま世界を前にして、初心に返ったような気がしている。端的にいってしまえば、こわい。未知のものに向かっていくことに大きな不安を感じる。でもいままでにない、おおきなやる気で満ちている。これこそ、旅をはじめた当初に抱いた気持ちだと思い出した。
やはり旅にはスリルが必要なのだ。実体の見えない未知の世界に向かうという感覚がなにより楽しい。
今の気持ちをどう表現したらよいだろうか。
真っ暗な洞窟におそるおそる足を踏みいれる。そこ知れぬ深みにビクビクしながらも先へ進む。しかし、その一番奥に到達してしまうと、その魅力は半減してしまう。しかしそんなときに新たな枝洞をみつけ、それこそ無限に近い広がりがあることに気づく。まさに新しい世界がひらけた。
と、いったらわかってもらえるだろうか。
世界へ。そう、文字どおり新しい世界へ旅立つ。